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峠城(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN5435.JPG←本丸館~北館間の大堀切
 峠城は、苅明楯(苅明館)とも言い、葛西氏の家臣寺崎氏の居城である。寺崎氏は、戦国末期には流郷24郷の旗頭として勢威を振るった。元々峠城主は峠千葉氏で、峠千葉氏は金沢城主金沢清胤の3男胤資に始まると言われる。その子胤時は、嫡男胤永が早逝したため、5男胤継を後継とした。尚、4男定時は下油田蒲沢楯主として独立している。胤継以後、峠千葉氏は寺崎氏を称したとされる。胤継の嫡孫寺崎下野守時胤は、1507年9月に金沢城主金沢冬胤と争いを起こし、千葉一族の抗争に発展した。この抗争で時胤は討死した。また胤永の嫡孫で宗家に当たる日形城主千葉秀胤も討死したため峠千葉氏は衰微し、桃生郡寺崎城より葛西氏支族の寺崎氏(寺崎倫重?)が峠城に移った。1579年、岩ヶ崎城主富沢日向守直綱は大崎氏の支援を受けて、峠城主寺崎石見守良次(良継)を攻撃したが、良次は葛西諸勢力の支援を受け富沢勢を撃退し、更に追撃して岩ヶ崎城まで追い詰め、富沢氏を降参させた。1582年、良次は九戸城主九戸政実に攻略された河崎城(金ヶ崎城?)を攻撃する葛西勢4000騎の総大将となったが、敗退して討死した。良次の養嗣子正次は、1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で没落し、翌91年に桃生郡糠塚山に至る途中で伊達政宗の謀略によって討死したと言う。
 以上が峠城主の歴史の概観であるが、葛西氏家臣団の例に漏れず、峠千葉氏・寺崎氏の事績についても文献によって異同があり、何が正しいのかよくわからない部分もある。

 峠城は、標高120m、比高60m程の丘陵上に築かれている。W字型をした山稜上に曲輪が連なっており、北から順に北館、本丸館、東館、南館の各曲輪が配置されている。伝承では本丸館に寺崎石見守、北館に千葉伊豆、東館に岩渕美作、南館に千葉大隅と、寺崎氏とその家臣団が居住していたとされる。城の北西にある林道から南東に谷戸を登る小道があり、それを登っていくと本丸館(主郭)と北館を画する大堀切に至る。北館はしゃもじのような形をした曲輪で、そこから北西に細長い曲輪が伸び、先端には平野神社が建っている。その背後には土塁があり、その裏に二重堀切が穿たれ、城域の北限を画している。『岩手県中世城館跡分布調査報告書』では、二重堀切の北にも平場が見られると言うが、薮でよくわからない。本丸館(主郭)は、登山靴のような形をした曲輪で、断崖に臨む東以外に腰曲輪を廻らしている。主郭北の腰曲輪には二重竪堀が穿たれ、その下方の尾根には堀切がある。主郭の西側にも何段もの腰曲輪群が築かれている。主郭南西の腰曲輪には竪堀状虎口があり、屈曲して横堀状通路になって、下の腰曲輪に繋がっている。本丸館の南東には東館がある。東館はやや細長い曲輪で、西側に腰曲輪を伴っている。南端は三重堀切で分断している。ここに土橋が架かり、南館に繋がっている。南館は単純な平場で、南端に小堀切が穿たれている。以上が峠城の遺構で、さすがはこの地域の旗頭の城であり、この地域では屈指の大城郭である。

 尚、西を通る車道の西側山上には西館があるが、未踏査である。
三重堀切の一部→DSCN5658.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.835654/141.221545/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

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