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荻野山中藩陣屋(神奈川県厚木市) [古城めぐり(神奈川)]

DSCN1783.JPG←陣屋跡の半島状台地
 荻野山中藩は、小田原藩大久保家の分家である。初代藩主大久保教寛(のりひろ)は、小田原藩5代目藩主大久保忠朝の二男で、将軍徳川綱吉の中奥小姓を振出しに家宣・吉宗と3代の将軍に仕え、若年寄まで務めた。その間、1698年に父忠朝の隠居に伴い、相模国足柄郡・駿河国駿東郡内に新墾田6000石を与えられて分家した。1706年には西の丸の若年寄に任ぜられ、駿河国駿東・富士2郡内に5千石、更に1718年に相模国高座・大住・愛甲3郡内に5千石を加増され、計1万5千石の大名に列した。享保年間(1716~36年)に屋敷を駿東郡松永村に置き、松永陣屋として4代教倫(のりみち)まで続いた。1783年、5代教翅(のりのぶ)の時、陣屋を江戸に近い相模国愛甲郡中萩野に造営し、翌年初めに陣屋の体裁がほぼ整うと、教翅は早速移り住んだ。これが荻野山中藩陣屋である。以後、幕末まで続いたが、1867年12月15日、薩摩藩邸に拠点を置く浪士隊の襲撃を受けて焼失した。これは武力倒幕を目指す薩摩藩による挑発で、ここから12月25日の江戸薩摩藩邸の焼討ち、翌月の鳥羽・伏見の戦いへの導火線となった。明治維新後、萩野山中県庁として利用されたが、1871年11月、廃藩置県によって藩知事・県知事を務めた元藩主大久保教義が東京に居を移すと、80余年、3代にわたって続いた陣屋は終焉を迎えた。

 荻野山中藩陣屋は、荻野川に向って南に突き出た半島状台地に築かれている。現在は、陣屋跡地の南端の一部が厚木市の史跡公園となっている他は宅地・駐車場に変貌している。明確な遺構はほとんどないが、地勢はよく残り、御殿の鬼門にあったという陣屋稲荷が往時の位置のまま残っている。また東側の崖下には井戸跡も残っている。台地周辺の土堤も往時のままと言う。厚木の国道脇に幕末の重要な歴史が埋もれているとは思わなかった。
東の井戸跡→DSCN1796.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.480443/139.332991/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1




タグ:陣屋
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