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奥平城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_7607.JPG←本丸の現況
 奥平城は、後に徳川家康の家臣となって徳川譜代大名に名を連ねた奥平氏の発祥の城である。奥平氏は、村上源氏の赤松則景の子氏行が上野国甘楽郡司となり、12世紀末に奥平郷を領して奥平氏を称して、奥平城を築城したと言われている。但し別説では、武蔵七党児玉党の裔、氏行が則景の養子になったとも言われ、その出自は明確ではない。その後、6代定政は新田義貞に従って軍功を挙げ、その子孫も南朝方として活動したと言う。新田氏が没落すると、14世紀末に8代貞俊は三河国作手に移り、三河奥平氏となったが、それまでの約200年間奥平氏はこの地を居城とした。三河移住後もこの地には縁者が残っていたが、1563年、武田信玄に攻められ落城したとされる。尚、三河奥平氏は、後に長篠城の守将となって活躍した奥平信昌を輩出した。

 奥平城は、申田川と桜沢という2つの小河川に挟まれた段丘上に築かれている。2段の平場から構成されただけの簡素な城砦で、下段を「平郭」、上段を「城」と言うらしい。城とは即ち本丸のことであろう。現在は下段の平郭は畑となり、上段の本丸は東側が畑に、西側は竹薮となっている。近年密生していた竹藪がかなり伐採されたらしく、一応歩けるレベルになっている。しかし平場が広がるほかは、特にこれと言った遺構は確認できない。高崎市のHPには、「本丸西面に搦手の食い違い土塁があった」と記載されているが、これも既に湮滅しているようである。標柱・解説板はあるが、平場と切岸以外に遺構は確認できない。おそらく小河川を天然の堀とした居館であったのだろう。尚、城の北350m程の所に奥平家の廟所がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.275460/138.963747/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1




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