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湯崎城(茨城県笠間市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6102.JPG←空堀と北出曲輪
 湯崎城は、宍戸城主宍戸氏の支城である。南北朝期の1344年に、宍戸安芸守朝里 (朝重)によって築かれたと言われるが、別説では鎌倉初期の1203年に築かれたともされる。どちらが正かは不明であるが、いずれにしも宍戸城防衛のために築かれた城だということは共通している。1481年、水戸城主江戸通長は、涸沼川南岸の小幡地方への進出を企て、小幡氏を攻撃した。小幡城の小幡氏は、宍戸氏・笠間氏・大掾氏らに援軍を要請し、同年5月5日、小幡・宍戸・笠間等の連合軍は江戸軍と、小鶴原で激突した。この時、連合軍三千余騎は、湯崎城に集結したと言う。この小鶴原合戦で、小幡・宍戸等の連合軍は江戸氏の攻撃を凌ぎきり、江戸勢は水戸城に退却した。戦国後期になると佐竹氏の勢力が伸長し、宍戸氏は一定の独立性を保ちつつ佐竹氏に従った。1590年、豊臣秀吉から常陸一国を安堵された佐竹義宣は、豊臣政権の権威を背景に常陸南部諸豪を武力で制圧する一方、佐竹氏に従っていた宍戸氏ら諸豪は佐竹氏の家臣と見做され、その後の佐竹氏領内の領地替えで、宍戸氏は海老ヶ島城に移された。1602年に、佐竹氏が出羽秋田に移封となると、湯崎城は廃城となった。

 湯崎城は、涸沼川北岸の比高15m程の段丘辺縁部に築かれている。市道から東に小道を入って行くと城の入口に至る。往時の大手虎口であったと思われ、土橋が架かり、その両側には土塁と空堀が築かれている。ここは主郭の北辺部に当たる。この虎口の東側にやや離れて、土塁囲郭の北出曲輪が築かれている。虎口防衛の堡塁であったのだろう。土塁で囲まれた小さな曲輪なので、窪地の様に見える。統治拠点の政庁的城だったらしく、主郭は極めて広く、東に伸びている。現在は主郭の東半分は果樹園と民家になっており、遺構の湮滅が進んでいて、明確な城域は確定できないが、おそらく東の市道までが城域だったのだろう。基本的にはただだだっ広い主郭だけの単郭の城で、その西面と南面に一段低く帯曲輪を延々と廻らしている。主郭側に低土塁も散見される。数年前までは比較的よく整備されていたようだが、現在はかなり放置されていて薮が多く、虎口近くにある城址碑も藪に埋もれていて、最初どこにあるかわからなかったほどである。藪が酷い上、遺構面でも特筆すべき物が少なく、少々物足りない城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.303825/140.323477/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0



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竹原城(茨城県小美玉市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6072.JPG←外郭の堀切
 竹原城は、府中城主大掾氏の支城である。大掾貞国の弟義国が、1559年に竹原城を築いて居城とし、竹原氏を称した。1590年、豊臣秀吉から常陸一国を安堵された佐竹義宣は、豊臣政権の権威を背景に常陸南部諸豪の制圧に乗り出し、同年12月に佐竹勢によって府中城は攻略され、大掾清幹は自刃して平安以来の名族大掾氏は滅亡した。この時、義国も討死にし、竹原城も廃されたと言う。

 竹原城は、園部川東岸に張り出したD字型をした低段丘に築かれている。この低段丘の中心に7~8m程の切岸で囲まれた主郭がある。主郭内は竹林となっているが進入できないほどではない。主郭北辺には祠が祀られた櫓台が築かれている。主郭の中央部はやや盛り上がっており、主殿が建っていたと推測される。この他、主郭外周には土塁が散見される。主郭の南東から城道が伸びており、下の腰曲輪に通じている。一方、主郭の北東には外郭が広がり、台地基部を分断する堀切と土塁が残っている。遺構としては以上で、居館機能を主体とした簡素な城砦である。
主郭の櫓台→IMG_6057.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.203049/140.315087/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1



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山田城の北出城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6011.JPG←主郭東側の堀切
 北出城は、山田城の尾根続きで、且つ山田城との間に谷戸を挟んだ丘陵上に築かれた出城である。山田城周辺には、この他にも山田氏の支城である小規模城館群が築かれていた。
 北出城は、ノースショアカントリークラブというゴルフ場のすぐ南に隣接する小丘上にある。西を通る県道2号線から車道が伸びているので、訪城は容易である。西から近づくと、出城本体から100m程離れた位置の道の脇に、明確な竪堀が落ちている。かなりはっきりした遺構で、竪堀だけでなく側方の竪土塁も明瞭である。出城自体は、小さな単郭の城で、東西に長い主郭があり、西と東に土塁を築き、その下に各々堀切を穿っただけの極めて簡素な構造である。西の堀切は藪が酷くて形状がわかりにくいが、東のものは深さ4m程ではっきりと形状が捉えられる。主郭内は藪が酷くて進入できない。北出城は大した遺構ではないが、形状が明瞭で行きやすい場所にあるので、山田城に行ったついでに寄るとよいだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.078422/140.525286/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世平山城
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山田城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_5941.JPG←主郭の土橋
 山田城は、この地の土豪山田氏の居城である。山田氏の出自は不明であるが、14~ 15世紀頃に山田郷に土着した武士と推定されている。城主としては、山田太郎左衛門の名が伝わっている。山田氏の事績は不明であるが、1591年に、佐竹義宣による「南方三十三館の仕置」によって鹿行諸将が謀殺され城が悉く制圧されると、山田城も開城して山田氏は滅亡したと推定されている。

 山田城は、北浦西岸の比高35m程の丘陵上に築かれている。南麓から登り道が付いており、主郭付近にある神社まで通じているので、苦労せずに登城できる。登り道は切り通し状となっていて、側方上部には腰曲輪の塁線に見下されており、往時の大手道であったと考えられる。登り切ると、主郭東側の二ノ郭に至る。二ノ郭は主郭の南面から東面にかけて広がるL字状の曲輪である。その上に主郭が数mの切岸でそびえている。主郭の南東隅には大型の櫓台があり、御嶽神社が祀られている。主郭は櫓台の北から西にかけて大きく広がっており、かなりの面積がある。櫓台周りを中心に、主郭全面積の半分ほどは藪が伐採されて開けているが、それ以外は大藪に埋もれている。主郭の西側から北側には1本目の横堀(横堀1)が延々と穿たれている。横堀の外周には土塁が延々と続き、北側まで来た所で、幅のある帯曲輪に変化している。この帯曲輪外周に2本目の横堀(横堀2)が穿たれている。この横堀2は、途中に土橋が架かり、外周土塁に竪堀状虎口が築かれ、横堀先端は北東尾根を掘り切っている。更に横堀2の北東部で3本目の横堀が派生しており、北東尾根に平行に、尾根の先端近くまで掘り切り、その先は腰曲輪となっている。この様に三重横堀で防御した、厳重な普請を施している。一方、主郭の北東角には横堀1に土橋が架かり、帯曲輪から主郭の虎口に通じている。この土橋の部分で、横堀はT字に分岐しており、南側に伸びる横堀は二ノ郭途中で堀がなくなっている。二ノ郭の北端は、横堀1で帯曲輪と分断されており、堀に沿って土塁を築いて防御している。この他、城の南西には搦手と思われる堀状通路などが見られ、また北東尾根には穴が縦に並んだ、意図不明の謎の畝堀状地形が見られる。山田城は、豪快な三重横堀が特徴的で、中々見応えがある。しかし藪のひどい部分もあり、近年部分的に整備が進められているものの、更なる整備が望まれる。
主郭の櫓台→IMG_5795.JPG
IMG_5831.JPG←横堀2

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.074832/140.526917/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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戸崎城の山崎出城(茨城県かすみがうら市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_5736.JPG←主郭~二ノ郭間の堀切
 山崎出城は、戸崎城の外郭東端に張り出した、独立性の高い出城である。戸崎城外郭からは堀切で分断されており、幅広の土橋が架かり、出城側には櫓台が築かれて虎口を防御している。出城自体は南北に2つの曲輪を連ねた比較的小規模な城で、南が主郭で方形の曲輪となり、北が二ノ郭で舌状曲輪となっている。これら2郭の間には深さ4m程のしっかりした堀切が穿たれている。この堀切の東側には坂土橋が繋がっており、東側の腰曲輪群に通じている。従ってこの堀切は、堀底道を兼ねていたことがわかる。また坂土橋の南側には横堀が穿たれている。また二ノ郭の周囲には、腰曲輪が1~2段取り巻き、東側には前述の通り坂戸橋に繋がる形で腰曲輪群が伸びている。遺構としては以上で、簡素な構造の城砦ではあるが、普請はしっかりしており、出城として有効に機能していたことが想像される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.075872/140.276420/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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菅生城(茨城県常総市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_5724.JPG←主郭周囲の切岸
 菅生城は、伝承では菅生越前守胤貞が城主であったと伝えられる。菅生氏の系譜は不明であるが、名前に「胤」の字があるところを見ると千葉氏に連なる家系であることが推測され、位置関係からすると守谷城主下総相馬氏の一族であったかも知れない。『東国戦記実録』という真偽不明の軍記物では、1560年、弓田城の染谷氏を攻撃中に、逆に馬洗城の横瀬能登守永氏に菅生城を攻め落とされ、胤貞は討死したと言う。1577年には、多賀谷氏の侵攻を受けたとされる。尚、発掘調査の結果、堀跡から小田原北条氏の城に多く見られる畝堀が検出されており、北条氏やその傘下に属していた下総相馬氏との結び付きが推測されている。

 菅生城は、谷戸に面した比高10m程の段丘先端に築かれている。先端に「城山」の地名の残る主郭があるが、内部はひどい藪が密生しており、内部への進入はできない。辛うじて主郭南端に低土塁が確認できる程度である。主郭の西側は堀跡の低地となっており、そこでは障子堀が発掘で見つかっている。その西に外郭があるが、ごく一部が山林のままであるものの、土地改良事業で大きく改変されて一面の畑となっている。ここでも堀跡が検出され、前述の通り畝堀が見つかっている。遺構は主郭以外に見る影もないが、解説板が立っているだけ良しとしたい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.994848/139.948847/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世崖端城
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大生郷城・天神城(茨城県常総市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_5698.JPG←大生郷城北辺の空堀らしい跡
 大生郷城・天神城は、伝承では一時期、小田原北条氏の城砦となっていたとされる。『東国戦記実録』という真偽不明の軍記物では、大生郷城は関宿合戦で勝利した北条氏の部将江戸氏が城主であったと言う。天正年間(1573~92年)に多賀谷氏の攻撃を受けたことで、江戸氏に変わって北条氏堯が水海道地域の経略を担った。こうして北条氏・多賀谷氏の攻防が繰り広げられ、結局多賀谷氏が勝利を収め、大生郷城・天神城はこの時焼失したと言う。また天神城には、北条氏政が天満宮を焼き払って城を築いたと言う伝承もある様だ。天満宮の社伝には、1576年に北条・多賀谷両氏の戦いにより、社殿が炎上・焼失したことが伝えられている。尚、『日本城郭大系』には、大生郷城は「赤松家祐の居城」とあるが、どの様な履歴なのか詳細は不明である。

 大生郷城・天神城は、東仁連川東岸の段丘上に築かれている。台地先端部に位置している大生郷城に対して、天神城は独立丘陵となっている。いずれもかなり改変を受けているのか、遺構はかなり不明瞭である。
 大生郷城は比高10m程の台地の南端にあるが、主郭と思われる南端の曲輪は宅地と畑になっており、周囲の切岸以外に城跡を思わせるものはない。主郭の北側は堀のような窪地になっているが、古い航空写真を見ると近代に改変されている可能性があり、遺構かどうか不明である。また北の外郭の北辺には堀状地形が見られる。しかしこれも「遺構かなぁ?」というレベルのものである。
 天神城は、現在大生郷天満宮の境内となっており、これも周囲の切岸以外に城跡を思わせるものは皆無である。
 縄張り的にも城の規模としても、北条氏が境目の橋頭堡として築いたにしては、あまりに北条らしくなく、遺構面でも結局のところ、「???」(疑問符)という感想しか感じられない状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:【大生郷城】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.061554/139.955413/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

    【天神城】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.060462/139.952624/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


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タグ:中世平山城
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館宿城・大祥寺城・笠根城(茨城県つくば市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_5616.JPG←笠根城の竪堀
 館宿城・大祥寺城・笠根城と隣接するように築かれた3城の内、大祥寺城は下総の豪族で豊田城主豊田氏の支城である。大祥寺の寺伝によれば、1504年に豊田氏の家臣藤原清知が大祥寺城を築いて居城としたと伝えられている。1533年に、栗崎城主原外記が祥庵寺を大祥寺城の地に移して名を大祥寺と改め、その開基となった。この時には藤原氏は既に居城を移していたらしく、それが笠根城だったのではないかとする説もある。
 館宿城は、1535年に栗崎城を攻略した下妻城主多賀谷重政が、家臣の渡辺道金に命じて築いたと言われる。
 笠根城は、歴史不詳である。
 これら3城のその後の歴史は不明であるが、1590年2月には大祥寺が多賀谷修理大夫(重経)より寄進を受けていることから、館宿城の築城以降は多賀谷氏の支配下に入っていたことは確実であろう。

 館宿城・大祥寺城・笠根城の3城は、小貝川東岸の比高10m程の低台地上に築かれている。谷戸を挟んで3つの城が寄り添うように密集している。いずれも宅地化などで改変が進んでおり、往時の縄張りを推測することは難しい。
 館宿城は、3城の中で最も残存状況が悪く、ほとんど遺構を留めていない。南北に伸びる舌状台地を東西に貫通する車道が、往時の堀切の名残だろうか?とか、車道脇にある神社の高台が往時の櫓台跡か?などと推量するだけである。また東側には腰曲輪らしい畑地が見られる。
 大祥寺城には、大祥寺の北側の竹林の中に堀らしき溝や土塁らしい土盛りが確認できる。しかし本当に遺構かどうかははっきりしない。おまけに現在、売地になっている様で、遺構の運命は風前の灯である。
 笠根城は、館宿城同様に宅地化が進んでいるが、最も遺構をよく残している。西斜面に竪堀が残り、北側の山林内に虎口か船着場の様な窪地状の地形が確認できる。
 いずれにしても3城ともあまり大した遺構ではなく、残念な状況である。
館宿城の腰曲輪っぽい畑→IMG_5560.JPG
IMG_5566.JPG←大祥寺城の溝状地形

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【館宿城】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.141522/140.008543/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

    【大祥寺城】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.141418/140.010817/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

    【笠根城】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.139616/140.007191/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


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栗崎城(茨城県つくば市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_5540.JPG←主郭周囲の土塁と横堀
 栗崎城は、下総の豪族で豊田城主豊田氏の支城である。1504年に豊田氏の家臣原外記が、小田城の支城として栗崎城を築いたと言われている。ということは、豊田氏自体は小田氏から独立した小大名であったが、既にこの頃に小田氏の影響下に置かれていたのであろうか。その後、1535年に下妻城主多賀谷重政に攻撃され、外記は討死し、栗崎城は落城した。1544年、重政の子多賀谷政経が栗崎城の故地に正福寺を建立して今に伝わっているとされる。
 栗崎城は、低湿地帯に突き出た舌状台地の先端に築かれている。前述の通り正福寺の境内となっており、本堂の周囲に主郭の土塁が残っている。また主郭の周囲には腰曲輪が廻らされ、西側では横堀となり、主郭南西部には横矢の折れも確認できる。南の台地続きにも外郭があったと想定されるが、遺構は湮滅しており、実際どうだったかは確認できない。栗崎城は、居館機能を主とした小規模な城砦だった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.149701/140.009937/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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太田城(茨城県八千代町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_5457.JPG←主郭周囲の土塁と空堀
 太田城は、下妻城主多賀谷氏の支城である。戦国末期の多賀谷氏当主重経は、1590年の小田原の役の時、結城晴朝、水谷勝俊らと小田原に参陣して秀吉に拝謁し、役後、下妻6万国を安堵された。重経は、長男三経を差し置いて、佐竹義宣の弟宣家を養嗣子として迎え、下妻多賀谷氏の当主とした。一方、三経は和歌城に仮住まいした後、太田城を築いて居城とし、結城晴朝の家臣となった。この結果、多賀谷氏は二系統に分裂することとなった。関ケ原合戦の際、重経は上杉景勝に通じた為、徳川家康によって改易された。戦後の論功行賞で、多賀谷三経は主君結城秀康(徳川家康の次男)に従って家臣団を引き連れて越前に移り、太田・和歌両城は廃城となった。後、三経に始まる太田多賀谷氏の系統は、越前松平氏の重臣として続いた。

 太田城は、低湿地帯に突き出た比高5m程の台地上に築かれている。宅地化で遺構の湮滅がかなり進んでいる。主郭は民家が建っているが、周囲の土塁や空堀など、比較的よく遺構が残っている。しかしその他は民家が立ち並び、断片的に土塁跡らしきものは民家の庭先に残っているが、不審者と間違えられるおそれもあり、写真撮るのも憚られる雰囲気が濃厚である。主郭の南を東西に貫通する車道は、城内のメインストリートだったと思われ、東側には鉤の手の屈曲も見られ、その脇に土塁らしき残欠もある。往時の虎口であった可能性がある。この他、南の愛宕神社も城内の一角であったと言われ、境内周囲に土塁が残っている。存続期間が少ない城だったためか、かなり遺構が失われているのは残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.177644/139.907584/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世平城
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磯辺館(茨城県古河市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_5349.JPG←北辺の土塁と空堀
 磯辺館は、古河公方家の重臣で水海城主簗田氏の家臣岩瀬豊前の居館である。小田原北条氏滅亡後、簗田氏は関東に入部した徳川家康に召し出され、徳川家旗本となった。簗田氏は1615年の大阪夏の陣に出陣し、当主簗田貞助が討死すると、岩瀬豊前はこの地で帰農したと言う。
 磯辺館は、国道354号線のすぐ南に隣接している。単郭方形居館であったと考えられ、北辺と西辺の土塁・空堀が、L字状に残っているのが車道からでもよく見える。国道なので、それなりに交通量が多いのだが、民有地であるためか(現在でも岩瀬氏の後裔の方の住居である)史跡指定されておらず、解説板もないので、ここを通る人の多くが城館遺構だとは知らないであろう。遺構が立派なだけに何となく残念である。
 尚、磯辺館から南南東500m弱の位置に簗田氏の歴代墓所(安禅寺)があり、簗田氏に所縁深い地であったことが窺われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.168082/139.738970/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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小堤城(茨城県古河市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_5324.JPG←水堀と土塁
 小堤城は、円満寺城とも呼ばれ、古河公方足利氏の家臣諏訪三河守頼方が築いたと言われる。頼方は、元々は信濃の諏訪氏の一族であったらしい。足利成氏に従って関東に下向した様である。その後、大永年間(1521~27年)に廃城となったと言う。

 小堤城は、現在の円満寺の地を中心に築かれていた。現在は寺の周囲、北側と西側に土塁と空堀が良好に残っている。空堀の北西部分では水堀となっており、湧水があるらしい。かつては三重堀を擁する平城だったと推測されている様だが、はっきりと分かるのは内堀部分のみである。

 三重堀の外堀は、円満寺から北に400m程離れており、県道190号線の東西に土塁と空堀が一直線状に残っている。しかしこれは、城の一部と言うより街道閉塞施設か野馬除けの様な遺構である。昭和20年代前半の航空写真を見ると、2つの小河川に挟まれた台地を、この空堀・土塁で南北に仕切っていたらしい。ちょうど結城長塁と同様のものであろう。
県道脇の外堀→IMG_5337.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.208520/139.766736/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


改訂版 図説 茨城の城郭

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薄墨桜 [Canon A-1]

A1_025.JPG
1週間前に撮影した、栃木県下野市の天平の丘公園にある薄墨桜の夜桜です。
もう今は、花は散っちゃって、葉桜になっているでしょう。
特に今日の夕方から風がすごく強かったので、とどめを刺された感じでしょうか。

 機材:Canon A-1  レンズ:Canon NewFD 20-35mm F3.5L
 フィルム:Fujicolor C200
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権現山城(茨城県かすみがうら市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_5255.JPG←珍しいL字型の坂土橋
 権現山城は、この地の豪族下河辺氏が築いた志筑城の詰城と言われている。別説では、天正年間(1573~92年)に小田氏の一族志筑左近が築いたとも言われる。いずれにしても詳細は不明である。

 権現山城は、標高99.3mの山上に築かれている。広くなだらかな山容を利用して、大きな曲輪の城砦が築かれている。山の東端は高くそびえ、御野立所の大きな石碑が建っている。これは昭和4年の陸軍特別大演習の時に、明治憲法下で軍の大元帥であった昭和天皇が全軍を統監した場所である。位置的には城外に当たるが、物見として絶好の位置にあり、往時も物見台として使われたと推測される。権現山城自体は、外周に横堀を廻らした曲輪面積の大きな城で、ほぼ単郭に近い形だが郭内は2段に分かれている。特に曲輪後部に当たる西側は、2つの平場の段差が大きく明確であり、郭内は実質的に主郭と二ノ郭に分かれていたと考えられる。郭内の北半は未整備の薮に覆われていて踏査できていないが、南半はハイキングコースも通っており、遺構がよく確認できる。曲輪面積が広いので、虎口は数ヶ所に確認でき、御野立所方面からの登り道の他に、南面に1つ、西面に3つ、北面に1つの計6ヶ所が想定される。この内、最も良く形状を残しているのは北面の虎口で、虎口の前に坂土橋を築いているが、一直線ではなくL字型に屈曲した珍しい坂土橋となっている。またこの北面の横堀は、途中で土塁がなくなって腰曲輪に変化している。土塁は、二ノ郭の周辺に築かれているが、全周ではなく西面と南面に多く築かれている。技巧性はないものの、ある程度の兵数が立て籠もることのできる、比較的大型の城である。居住性もあることから、有事の際の詰城と言うよりも、もっと積極的な使われ方をした城だった様に見受けられる。
南面の横堀→IMG_5198.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.192590/140.218120/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世山城
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今泉城(茨城県土浦市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_5157.JPG←山林に残る空堀
 今泉城は、常陸の名族小田氏の支城である。信太氏の一族今泉氏が築いたもので、信太氏は小田氏の重臣として知られる。今泉城主は今泉五郎左衛門であったと伝えられるが、その事績は不明である。
 今泉城は、天の川南岸の段丘上に築かれている。法泉寺の付近に主郭があったとされる。城内は現在宅地や畑となっており、遺構はほとんど残っていない。昭和20年代の航空写真を見ても現在と大きくは変わらないので、早くに遺構が失われてしまったらしい。辛うじて外郭の空堀の一部が、北西の山林内と南西の畑地に残っているだけである。既に往時の縄張りを追うことができない状況で、かなり残念な状況となってしまっている。法泉寺の門前と、台地外周の北東に城に関する石碑が建っているのが、唯一の救いである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.139894/140.189109/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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永井城(茨城県土浦市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_5040.JPG←主郭周囲の土塁と横堀
 永井城は、常陸の名族小田氏の支城である。南北朝期には、小田治久は北畠親房を擁して小田城に立て籠もり、幕将高師冬の攻撃を受けたが、永井城も師冬軍に攻撃されたと言う。

 永井城は、標高70m、比高40m程の丘陵上に築かれている。城の選地としては甲山城に似ている。甲山城と同様、ほぼ単郭の城で、主郭の外周を土塁で囲み、外周には横堀を廻らしている。主郭の北西には腰曲輪を設けているが、南と北に主郭土塁から突き出した土塁を築いて防御し、主郭の横堀はこの土塁に突き当たった所で横に折れて、竪堀となって掘り切っている。この突き出し土塁の内、北のものは根本が堀切兼用の虎口となっており、横堀に通じている。また主郭の東側には、土橋の架かった虎口が見られる。主郭の横堀外周も低土塁が築かれ、特に南東角は物見台状となっている。甲山城と比べると横矢掛かりが少なく、築城思想の違いがわかりやすい。この他、藪の多い主郭内には、円形の塚が見られる。祭祀用の施設であろうか?主郭の周囲は緩斜面が広がり、いくつかの塚が見られるのも甲山城と共通している。南西に向かって竪堀状に、山麓から通じる城道が残っているが、中程に櫓門跡と思われる土塁が道の両側に残っている。以上が永井城の遺構で、主郭の広さは甲山城の倍ほどもあるが、横矢掛かりがあまり意識されておらず、居館的機能を重視した城と考えられる。
城道中程の櫓門跡→IMG_5116.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.154951/140.189924/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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