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白倉城(群馬県甘楽町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_7788.JPG←麻場城の空堀と復元木橋
 白倉城は、上野守護を兼帯した関東管領山内上杉氏の重臣であった白倉氏の居城である。白倉氏は、武蔵七党児玉党の流れを汲む国峰城主小幡氏の一族である。承久の乱で討死した白倉成季が、白倉氏の祖とされる。その後、小幡氏諸族と共に西上州に勢力を張り、小幡宗家と共に上州八家の一つにも数えられるほど発展した。戦国時代になると、関東管領山内上杉氏の四宿老として長尾氏・大石氏・小幡氏と共に白倉氏の名が挙げられており(『関八州古戦禄』)、小幡宗家とは独立した勢力として見做されていた様である。その後、山内上杉憲政が相模の北条氏康の攻勢によって越後に逐われ、これを庇護した越後の長尾景虎が憲政から山内上杉氏の名跡と関東管領職を譲り受けて上杉政虎(後の上杉謙信)となると、白倉道佐は政虎の側近として鶴岡八幡宮での管領就任式に随従した。甲斐の武田信玄が西上州の攻撃を開始すると、1563年に道佐は武田氏に服属した。しかし1582年、武田氏が織田信長に滅ぼされ、信長の重臣滝川一益が上野に入ると、白倉重家(道佐の子)は滝川氏に服従した。信長が本能寺で横死すると、北条氏直は神流川の戦いで滝川氏を破り、滝川氏は本領の伊勢へと落ち延び、西上州は北条氏の支配下に入った。重家は、神流川合戦で滝川方として戦ったが、戦後は北条氏に服属した。1590年の小田原の役の際には、重家は小田原城に立て籠もり、白倉城は弟・重高に守らせたが、前田利家を総大将とする北国勢に攻撃され、白倉城は落城した。そして北条氏滅亡後、白倉氏も没落した。

 白倉城は、この地の多くの崖端城と同じく、鏑川沿いの平野の南に連なる段丘群の一角に築かれている。麻場城・仁井屋城という離れて並立する2つの城で構成され、更に麻場城の南西麓に平時の居館を置いている。
 麻場城は、現在公園として復元整備されているので、遺構がわかりやすい。主郭の周囲を規模の大きな空堀で囲繞し、南側に土橋を架けて二ノ郭に接続している。主郭の北にも虎口があり、木橋が復元されている。主郭には土塁がないが、二ノ郭は、主郭との間の空堀沿いに数mの武者走りを設けて土塁が復元されている。主郭の土橋にはクランクして入るようになっているので、蔀土塁を兼ねた様なものだったのだろう。二ノ郭の西側には空堀が残っているが、南側にあったと思われる堀切は埋まっていてわからなくなっている。この辺は民有地のため、復元されていない。また主郭外周の堀の外側には土塁が廻らされ、北側には腰曲輪が張り出している。北東斜面には小郭があり、横堀が穿たれている。更に城の三方の斜面にも帯曲輪が築かれている。
 仁井屋城は、麻場城の東方500m程の位置にあり、ほとんどの部分が畑になっている。改変が多く、しかも畑以外の部分はガサ藪で縄張りはかなりわかりにくい。『日本城郭大系』の縄張図によれば、中央の主郭を中心に北・南・東に曲輪群を配置し、主郭の東側以外の周囲には空堀が廻らされていたらしい。主郭の西・北・東は切岸状の段差が確認できるが、空堀は現在では埋められていたり藪がひどくてほとんど確認不能である。その他、明確な遺構としては、東斜面の帯曲輪が確認できた。
 居館は民家になっており、石碑もあるらしいが、敷地の奥にあるらしく見ることができなかった。時間も日没間際だったので、訪問は諦めた。一応敷地の入口付近に「麻場城主居館跡」の表示があるので、日中に訪問すれば見せていただけそうな雰囲気ではあった。

 白倉城は以上の通りで、麻場城は復元整備の甲斐あって見応えがあるが、上州八家に数えられた有数の豪族の城にしては単純で、縄張りも規模も少々物足りない印象を受ける。
仁井屋城の主郭と切岸→IMG_7708.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【麻場城】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.247483/138.942440/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

    【仁井屋城】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.247916/138.947783/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

    【白倉氏居館】 http://maps.gsi.go.jp/#16/36.245147/138.940208/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


図説 戦国北条氏と合戦

図説 戦国北条氏と合戦

  • 作者: 黒田基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2018/06/30
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蕨城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_7690.JPG←二ノ郭の堀切
 蕨城は、根古屋城とも呼ばれ、歴史不詳の城である。多比良城仁井屋城・麻場城といった諸城砦と類似した構造であることから、これら諸城と同時代に築かれ、国峰城主小幡氏に属していたのではないかとの説が提示されている。
 蕨城は、星川支流の蕨川と根古屋川に挟まれた、比高40m程の台地上に築かれている。城内は一部藪のほかはほとんどの部分が畑地となっている。東の車道脇から畑に登る道が付いている。台地先端近くに方形の主郭と二ノ郭を南北に連ね、主郭の周囲に腰曲輪とその南に三ノ郭を置き、更に三ノ郭の西に2段の腰曲輪、東には4郭、4郭の東にも腰曲輪を置いた縄張りとなっている。主郭と二ノ郭の間の堀切は耕地化で埋められたのか、かなり浅くなっているが、幅は広い。二ノ郭北側の台地基部にも堀切が穿たれているが、こちらは幅は狭いが深さはしっかりしている。また主郭西側の腰曲輪には土塁が築かれている。三ノ郭は2段の平場に分かれているようだが、進入不能のガサ藪で未確認である。確かに多比良城等とよく似た構造だが、規模がひと回り小さく、あまり技巧性も感じさせない。居館的機能の城と思われるが、その割に伝承が残っていないのが不思議である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.279232/138.937333/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
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タグ:中世崖端城
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奥平城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_7607.JPG←本丸の現況
 奥平城は、後に徳川家康の家臣となって徳川譜代大名に名を連ねた奥平氏の発祥の城である。奥平氏は、村上源氏の赤松則景の子氏行が上野国甘楽郡司となり、12世紀末に奥平郷を領して奥平氏を称して、奥平城を築城したと言われている。但し別説では、武蔵七党児玉党の裔、氏行が則景の養子になったとも言われ、その出自は明確ではない。その後、6代定政は新田義貞に従って軍功を挙げ、その子孫も南朝方として活動したと言う。新田氏が没落すると、14世紀末に8代貞俊は三河国作手に移り、三河奥平氏となったが、それまでの約200年間奥平氏はこの地を居城とした。三河移住後もこの地には縁者が残っていたが、1563年、武田信玄に攻められ落城したとされる。尚、三河奥平氏は、後に長篠城の守将となって活躍した奥平信昌を輩出した。

 奥平城は、申田川と桜沢という2つの小河川に挟まれた段丘上に築かれている。2段の平場から構成されただけの簡素な城砦で、下段を「平郭」、上段を「城」と言うらしい。城とは即ち本丸のことであろう。現在は下段の平郭は畑となり、上段の本丸は東側が畑に、西側は竹薮となっている。近年密生していた竹藪がかなり伐採されたらしく、一応歩けるレベルになっている。しかし平場が広がるほかは、特にこれと言った遺構は確認できない。高崎市のHPには、「本丸西面に搦手の食い違い土塁があった」と記載されているが、これも既に湮滅しているようである。標柱・解説板はあるが、平場と切岸以外に遺構は確認できない。おそらく小河川を天然の堀とした居館であったのだろう。尚、城の北350m程の所に奥平家の廟所がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.275460/138.963747/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1




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乗附城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_7443.JPG←Ⅰ郭背後の堀切
 乗附城は、寺尾上城とも言い、戦国時代には乗附治部左衛門・乗附囚獄ら乗附氏の城であったと言われている。乗附氏の事績については不明。尚この城にも寺尾中城と同様、尹良(ゆきよし)親王の伝承があるが、尹良親王の実在自体が疑わしいので、史実とは見做し難い。

 乗附城は、標高211m、比高90m程の山稜上に築かれている。城へは、国立のぞみの園という障害者施設の職員宿舎の近くから山道が付いており(1/25000地形図にある黒線の道)、この道を辿れば城の南西の尾根まで行くことができる。尾根上に堀切を介して曲輪群を連ねた連郭式の縄張りで、南西から順にⅣ郭・Ⅲ郭・Ⅱ郭・Ⅰ郭・Ⅴ郭・Ⅵ郭・Ⅶ郭とここでは仮称する。ちなみに『日本城郭大系』の縄張図ではⅢ郭を本丸としているが、これは間違いである。堀切は、Ⅰ郭背後のものは中規模で深く鋭いが、それ以外はいずれも浅く大した防御効果を持っていない。主郭前面だけ二重堀切になっているが、これもかなり浅い。また曲輪の規模もいずれも小さく、城中最大のⅢ郭でも大した広さではない。Ⅱ郭は2段の平場に分かれ、Ⅰ郭だけは前後に小郭を置いて護りを厳重にしている。またⅢ郭・Ⅱ郭・Ⅴ郭の北側斜面には腰曲輪が数段置かれ、堀切から落ちる竪堀は腰曲輪に通じる通路を兼ねている。特にⅠ郭前の二重堀切では、内堀はそのまま竪堀となって落ちているが、外堀は竪堀ではなく武者走りに変化して腰曲輪への連絡通路となる珍しい形状を採っている。またⅢ郭・Ⅱ郭では南斜面にも2段の腰曲輪が築かれている。この他、Ⅰ郭の北支尾根には段曲輪群が築かれており、曲輪群の付け根に堀切、その手前には土壇が構築され、下の方の段曲輪では両翼が突出して下の曲輪に対して相横矢を掛けるなど、主城部よりも普請がしっかりされ、新しい構造の様に見受けられる。乗附城は、城の規模・構造から考えて詰城には相違ないが、在地土豪の城が戦国期により強化された痕跡を見せている様だ。
Ⅰ郭手前の二重堀切→IMG_7512.JPG
IMG_7471.JPG←北支尾根の段曲輪群

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.318989/138.968768/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


関東・甲信越 戦国の名城・古城 歩いて巡るベスト100

関東・甲信越 戦国の名城・古城 歩いて巡るベスト100

  • 作者: 清水 克悦
  • 出版社/メーカー: メイツ出版
  • 発売日: 2012/10/15
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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寺尾中城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_7230.JPG←四ノ郭群前面の畝状竪堀
 寺尾中城は、歴史不詳の城である。『吾妻鑑』には、1180年の源頼朝挙兵の際、同じ清和源氏の一族新田義重が上野寺尾城に引き籠もって軍兵を集めたとあり、それが寺尾中城ではなかったかとの説がある。義重の上野国における所領は、新田荘と西上野の八幡荘であり、八幡荘は現在の安中市板鼻から高崎市西南部に広がり、烏川の南で碓氷川北岸・南岸にまたがる地域で、新田氏の根本所領であったと考えられている。寺尾城は八幡荘の荘域にあったと考えられ、義重はこの寺尾城に立て籠もったものらしい(峰岸純夫著『新田義貞』)。また応永年間(1394~1427年)に後醍醐天皇の孫、尹良(ゆきよし)親王が世良田政義の支援を受けて寺尾城に籠もったとの伝承もあるが、そもそも尹良親王なる人物が実在したかが疑わしいので、史実とは見做し難い。結局、はっきりしたことはわからないが、寺尾城砦群(上城・中城・下城茶臼山城)の中で最大の城域を有し、一部に技巧的な構造も見られることから、武田氏支配時代に武田氏か武田氏に服属した西上野の有力豪族が改修した城砦ではなかったかと個人的に推測している。

 寺尾中城は、観音山ファミリーパークから北東に伸びる長い稜線上に築かれている。公園から散策路が整備されているので、訪城はたやすい。基本的には尾根上に曲輪群を連ねた連郭式を基本とした縄張りであるが、派生する支尾根にはことごとく小郭群を配置するなど城域はかなり広範囲に及び、主郭背後の堀切から五ノ郭先端の堀切まで、直線距離でざっと600m以上にも及ぶ巨城である。しかし一つ一つの曲輪は小規模で、最も広い三ノ郭でも大した居住性を持っていないので、位置付けとしてはあくまで有事の際の詰城であろう。城内は大きく5つの曲輪群に分かれる。南西端の最高所に位置するのが主郭群で、背後を二重堀切で分断し、北西側に一段低く虎口郭を置いて枡形虎口を形成している。また南の支尾根に2段の段曲輪と、堀切を挟んで舌状曲輪を配置している。主郭の東に二ノ郭群がある。二ノ郭群は背後に堀切を穿ち、前面に小郭を置いた、簡素な構造である。二ノ郭群から三ノ郭群に至る間には、小丘状の繋ぎの曲輪があり、やはり背後に小堀切がある。前面にも堀切があるとされるが、現況からははっきりとは認識できない。繋ぎの曲輪の先に三ノ郭群がそびえている。曲輪の数では三ノ郭群が城内で最も規模が大きく、長さも全体で160m程もある。頂部の曲輪の西から北面に腰曲輪が廻らされ、更に北に伸びる尾根に沿って下段の曲輪が長く伸びている。下段の曲輪の付け根付近の両側に堀切が穿たれ、また曲輪の先端には枡形の土塁がある。その下方に堀切が穿たれた小郭があり、この堀切は東側に横堀となって伸びている。また西側は大竪堀となって落ちている。三ノ郭群には、更に西の支尾根と北西の斜面にも腰曲輪群が築かれ、その側方にはいずれも竪堀が穿たれている。西尾根曲輪群では下段の腰曲輪の外縁部に二重竪堀が穿たれている。また北西斜面の一番広い腰曲輪では、櫓台を備えた虎口を有し、竪堀に連結している。従って、竪堀が通路として機能していたことがわかる。三ノ郭群から四ノ郭群へ至る尾根は長い土橋となっているが、静岡の城ではこれを「一騎駆け」と言っている。四ノ郭群は、中間部東側に大竪堀が落ちている。一部垂直絶壁となった崩落地形も見られるが、竪堀状の城道であったことが後で絶壁上に物見台を見つけたことからわかった。四ノ郭群の前面の遺構は、寺尾中城で最も技巧的な部分である。坂土橋の側方に横堀と竪堀を組み合わせ、外周土塁と土橋をL字状に連結させた構造で、更に側方の竪堀は畝状竪堀を穿っているのである。ここの畝状竪堀は、横堀から落ちる形状となっており、そのためコブ状の畝を持っている。その先の急な尾根道を降って暫く行くと、ようやく五ノ郭群に至る。五ノ郭群の下段曲輪には鍛冶平稲荷神社が祀られている。五ノ郭群の先に小規模な二重堀切が穿たれている。その先の尾根は自然地形の様である。静岡(駿河・遠江)の城で二重堀切と言えば武田氏の専売特許の様になっているので、畝状竪堀・一騎駆け土橋などの遺構と合わせて考えると、寺尾中城は武田氏勢力による城と考えたい。

 尚、残念なことに、ネット上で見られる寺尾中城の案内と縄張図は、いずれも遺構の見落としがかなり多く、正確性に欠けてしまっている。一番実情に近いのが安曇野風来亭さんのHPにある鳥瞰図だが、それでも畝状竪堀や支尾根の小郭群は見落とされてしまっている。そんなわけで想定以上に広範囲に遺構があり、予想外に時間と体力を費やしてしまった。
土塁に連結する坂土橋→IMG_7233.JPG
IMG_7288.JPG←五ノ郭群先端の二重堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.291253/138.997629/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


新田義貞 (人物叢書)

新田義貞 (人物叢書)

  • 作者: 峰岸 純夫
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2005/05/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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寺尾茶臼山城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_6937.JPG←主郭切岸と周囲の横堀
 寺尾茶臼山城は、鷹ノ巣城とも呼ばれる山城である。その歴史には諸説ある。
①鎌倉時代に新田氏の祖、新田義重が居城としたとする説。義重は八幡太郎源義家の孫で、弟の義康は足利氏の祖となった。義重は源頼朝挙兵の際、平家方に付いた為、鎌倉時代を通して新田氏は鎌倉幕府から冷遇された。その雪辱を果たしたのが、新田義貞である。
②南北朝時代に新田義貞の弟、脇屋義助が城主であったとする説。
③室町時代の正長年中(1428年頃)に和田小太郎という武士が築城したとする説。
④戦国時代の1565年に、武田信玄が山名城と鷹ノ巣城(寺尾茶臼山城)の間に新城(根小屋城)を築いたという『甲陽軍鑑』の記事。
 しかし新田氏居城説(脇屋義助も含めて)は、新田氏の本拠地(新田庄)が東に遠く離れていることから、事実ではないだろう。和田氏が築いた小城砦を、武田氏が根小屋城築城と共に改修したという辺りが史実に近いのではないだろうか。あくまで個人的推測であるが。

 寺尾茶臼山城は、標高170m、比高90m程の山上に築かれている。山頂に長方形の主郭を置き、その北面・東面に横堀を穿ち、周囲に二ノ郭・三ノ郭の平場が段状に築かれている。また主郭背後には堀切を挟んで南郭が置かれている。この背後の堀切は、この手の小城砦にしては規模が大きい。主郭の南面から西面は土塁で防御している。また主郭周囲の横堀には土橋が架かり、主郭虎口と横堀外周の土塁とを連結しており、根小屋城と似た構造となっている。この点から、武田氏改修の可能性が高いのではないかと思う。小規模な城であるが、普請はしっかりしており見応えがある。城山住宅団地から散策路があり、2台分の城址見学者用の駐車場もある。城跡も整備されているので、見学しやすい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.292100/139.008958/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

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  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
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タグ:中世山城
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平山城(千葉県千葉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_6810.JPG←妙見社裏の大土塁
 平山城は、長谷部城とも呼ばれ、一時期千葉氏の居城となったと言われている。15世紀の後半、鎌倉公方足利成氏と関東管領山内上杉憲忠の対立から、享徳の大乱が勃発した。その余波で千葉氏内部に内訌が生じて千葉宗家が滅ぼされ、その後は庶流の馬加康胤の系統が千葉氏を称した(後期千葉氏)。この馬加系の千葉宗家を継いだ輔胤(康胤の庶長子とされる)が平山城を取り立てて居城とし、その子孝胤の時に平山城から本佐倉城に居城を移したらしい。しかしこの辺りの歴史は、当時の大乱による混乱もあってか、諸説あっていずれが正しいか明確ではない。ちなみに平山城周辺には家臣の屋敷伝承地が散在していることから、一時期とは言え千葉宗家の居城として整備されていた様だ。本佐倉城移城後の平山城の歴史は不明である。

 平山城は、都川支流の北岸にそびえる標高43m,比高23m程の長方形をした台地突出部に築かれている。城の主要部は民家奥の畑地であり、入口の家の方に断って入る必要がある。そこのお婆さんに城跡探訪ということで話をしたが、どこでもそうなのだが、しっかり遺構がある所に限って「何もない」と力説されるのは何故なのだろう?平山城もそうで、妙見社の背後や台地辺縁部など、立派な大土塁が各所に確認できる。かなり広大な城で、畑の周りによくこれだけ土塁が残っていたものだと感心する。ただ城郭遺構が断片的なので、往時の縄張りがどうなっていたのか、想像するのが難しい。台地中央には周囲を土塁や切岸で囲んだ方形の広い空間があり、周囲より高くなっていることから、ここが主郭と想定される。その南西に広がる畑地を、ここでは仮に二ノ郭とする。二ノ郭には前述の妙見社があるが、その背後の大土塁は何の役目を果たしていたのか、わかりにくい。一方、二ノ郭の南西端には南と西の二辺を土塁で囲んだ一段低い曲輪があり、その脇に二ノ郭隅櫓台の土塁が繋がっている。そのには腰曲輪があり、前述の櫓台下に竪堀状の城道があり、途中に木戸口らしい遺構も見られる。しかしこの城道から上の二ノ郭への動線が切れてしまっている。また二ノ郭の南東角には小堀切と土壇を有した小郭が築かれている。二ノ郭の東辺にも土塁が散見される。主郭は南東側に大土塁を築き、虎口が残っている。この他、周囲には腰曲輪らしい平場が広範囲に残っているが、民家や畑への改変がされていて、どこまでが遺構なのかは微妙である。平山城は、居館的色彩の強い城で、本佐倉城と比べると戦国期以前の素朴な縄張りの城であったことが窺える。
主郭周囲の大土塁→IMG_6839.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.571602/140.192714/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


日本城郭大系〈第6巻〉千葉・神奈川 (1980年)

日本城郭大系〈第6巻〉千葉・神奈川 (1980年)

  • 作者: 平井 聖
  • 出版社/メーカー: 新人物往来社
  • 発売日: 1980/02
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城の腰城(千葉県千葉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_6719.JPG←大堀切
 城の腰城は、歴史不詳の城である。伝承では、板倉筑後守が築城したと言われているが、筑後守は1638年の島原の乱で戦死した板倉内膳重昌の次男重直と比定されており、1639年にこの地を知行している。そうなると元和の一国一城令の後に、わざわざ中世城郭的な城を築いたことになり、時代背景が合わない。中世城郭の色彩の濃い城の造りと、千葉氏の勢力圏の真っ只中の地域であることを考えれば、千葉氏かその家臣が戦国期に築いた城と考えるのが自然であり、一説には都川支流に点々と所在する城山城立堀城平山城と共に連携して機能した城ではなかったかとも推測されている。

 城の腰城は、都川支流の北岸に突き出した比高15m程の段丘上に築かれている堀切で分断した城で、単郭ではあるが曲輪の面積は大きい大規模な城である。北限の堀切も規模が大きく、長さ100m以上に渡って幅15m、深さ10m程の堀が穿たれている。残念ながら主郭部は千葉東金道路が貫通して、大きく破壊されてしまっているが、東金道路脇から主郭の南端部に登ると、道路の向こうに見える城域北限までかなりの距離があり、大きな曲輪を有した城であったことがわかる。また前述の堀切は藪化しているものの、ほぼ無傷で残っているので、遺構の規模をよく推し量ることができる。堀切は一直線ではなく、横矢掛かりの折れが見られ、塁線が中央部で内側に折れ込んでいる部分に虎口が辛うじて残存している。虎口から堀切に向かって、土橋状に土塁が伸びている様であるが藪でわかりにくい。また堀切北側には土塁の張り出しも見られる。堀切の主郭側には土塁がそびえ、東西両端部は物見台となっている。この他、残存する主郭南端部の東側には低土塁も確認できる。城の腰城は、その規模から考えて、軍団の中継基地か兵站拠点であったことが窺われ、千葉氏やその重臣の原氏、或いはそれらを傘下に収めた小田原北条氏などによって使われた可能性は十分に考えられる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.600413/140.157781/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


図説 房総の城郭

図説 房総の城郭

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 国書刊行会
  • 発売日: 2002/09
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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飯野城(千葉県佐倉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_6621.JPG←主郭の枡形虎口
 飯野城は、歴史不詳の城である。位置的には印旛沼を挟んで臼井城師戸城と相対する位置に築かれており、臼井城の支城群と連携して湖沼の水運を扼する要害ではなかったかと想像される。

 飯野城は、印旛沼東岸の比高20m程の南北に細長い丘陵上に築かれている。地形図を見ると本当に細長い尾根となっているが、現地に実際に行くと城内は思った以上に広い。城は県立印旛手賀自然公園の西端にあり、野鳥観察の為の散策路が整備されている。しかし遺構はよく残っており、公園化による破壊は少ない様である。北に主郭、南に二ノ郭を置いた連郭式の縄張りの簡素な城砦である。主郭先端は細尾根となって降っている。主郭南には枡形虎口の土塁が築かれ、二ノ郭との間にはかなり浅いが堀切が確認できる。堀切の西端は竪堀となって落ち、東端は東斜面の腰曲輪に繋がっている。二ノ郭は広く、南東にやはり枡形虎口が築かれ、虎口脇に土塁や腰曲輪が築かれて防御を固めている。また二ノ郭の東斜面には帯曲輪が延々と伸びている。南東にも2段ほどの腰曲輪が構築され、その先は台地基部を繋ぐ幅広の尾根となっている。尾根は自然地形のままで、特に堀切などの普請は見られない。飯野城は、大した城ではないものの、主郭・二ノ郭の桝形虎口がよく残っており、遺構面からすると戦国期の城であったことが推測される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.751084/140.201275/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


図説 房総の城郭

図説 房総の城郭

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 国書刊行会
  • 発売日: 2002/09
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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志津城(千葉県佐倉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_6593.JPG←神社のある高台
 志津城は、千葉氏の一族臼井氏の居城臼井城の支城である。臼井昌胤の次男胤氏がこの地に分封されて志津氏を称し、志津城を居城とした。鎌倉後期の1314年、臼井氏10代祐胤(胤氏の兄)が25歳の若さで病没し、わずか3歳の嫡子竹若丸(興胤)が、叔父の志津胤氏の後見を受けて家督を継いだ。しかし胤氏は、竹若丸を暗殺して臼井氏惣領の座を奪おうとした。それを知った一族の岩戸胤安は、竹若丸を臼井城から脱出させて自らの居城岩戸城に匿い、更に鎌倉建長寺に竹若丸を隠した。これを知った胤氏は、岩戸城を攻めて岩戸胤安・胤親父子を滅ぼし、臼井氏を乗っ取り臼井城を居城とした。後に成長した興胤は、南北朝の騒乱の中で足利尊氏に従った軍功により臼井氏の惣領と認められ、1338年、尊氏の命で胤氏は興胤に臼井城を明け渡した。しかし内心不本意な胤氏は、興胤を侮って非礼が多く、遂に興胤は胤氏討伐を決意し、1340年に志津城を攻撃して志津氏を滅ぼした。以後、志津城は廃城となったと考えられている。

 志津城は、小河川に面した比高5m程の低台地に築かれていたと考えられている。城址周辺一帯は市街化でかなり改変されており、天御中主神社の付近だけが城址の雰囲気を残している。神社境内は、2段ほどの平場を持った小さな高台となっており、往時の城の櫓台の様な感じである。この高台の脇には水堀らしい跡も残っている。確認できるのはそのぐらいで、あとはやや起伏のある地形に住宅地が広がっているだけである。志津城は、師戸城・岩戸城と並ぶ臼井城周辺の三大支城の一であったと言われているらしいので、この周囲を城域とした広大な城であったと思われるが、戦後の航空写真を見ても既にどの様な縄張りだったのか、追うことができなくなってしまっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.709366/140.147202/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


東葛の中世城郭―千葉県北西部の城・館・城跡

東葛の中世城郭―千葉県北西部の城・館・城跡

  • 作者: 千野原 靖方
  • 出版社/メーカー: 崙書房出版
  • 発売日: 2004/02
  • メディア: 単行本


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井野城(千葉県佐倉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_6577.JPG←二ノ郭の桝形虎口
 井野城は、歴史不詳の城である。戦国時代のこの地域は下総の名族千葉氏の勢力下にあり、千葉氏の一族で重臣であった原氏が臼井城の支城として井野城を築いたのではないかと推測されている。

 井野城は、ユーカリが丘という住宅団地の一角にある。ユーカリが丘は、もうかれこれ40年程前、私がまだ小学生で八千代市の近くに住んでいた頃に、住宅団地と一緒にユーカリが丘線という新交通システムができたということで、友達とわざわざ京成線を乗り継いで乗りに行ったことがある、思い出の地である。まさかこんな開けてしまったところに、城址遺構が残っているとは思わなかった。周辺は市街化で往時の面影は全く残っていないが、城跡部分の丘だけが周囲から隔絶された異次元空間の様に残っている。昭和30年代の航空写真を見ると、南に向かって張り出した台地先端部の小山となっていたが、周辺台地の地形はかなり変わってしまっている。そうした地形の改変を考慮した上で遺構を見る必要があるだろう。南側の谷戸は、現在宮の杜公園という調整池となっている。丘の上には八社大神という神社があり、その脇に窪地状の広い空間があり、これが主郭とされている。窪地状の曲輪という、珍しい形である。その周囲は削り残しの土塁らしく、外周には横堀が遊歩道となって残っている。また主郭の東側にニノ郭があり、前述の横堀はこの二ノ郭手前で東に折れている。この折れの部分に二ノ郭の虎口があり、一種の枡形虎口を形成していた様である。虎口脇には土塁もはっきり残っている。二ノ郭は、主郭より小さい曲輪だがなぜか主郭より一段高い位置にある。しかし周囲の土塁の防御性では主郭より劣っていることを考えると、やはり高い位置にある方が二ノ郭なのかな?という不思議な感じの縄張りである。井野城は、この様にあまり城跡らしさを感じさせない遺構であるが、おそらく陣屋的な機能が主体の城砦だったのではないかと推測される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.739084/140.148983/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


東葛の中世城郭―千葉県北西部の城・館・城跡

東葛の中世城郭―千葉県北西部の城・館・城跡

  • 作者: 千野原 靖方
  • 出版社/メーカー: 崙書房出版
  • 発売日: 2004/02
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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柳戸砦(千葉県柏市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_6461.JPG←東側の空堀
 柳戸砦は、歴史不詳の城砦である。この地は、鎌倉~室町前期頃には、下総相馬氏か、新田岩松氏(相馬氏2代義胤の娘土用御前の嫁ぎ先)が領したことが、『新田岩松文書』から推測されている。戦国後期には、小金城主高城氏がこの地を支配していたらしい。しかし柳戸砦との関連は不明である。
 柳戸砦は、下柳戸集落背後の丘陵地に築かれている。六所神社の東側に隣接しており、山林内に南に開いたコの字状に、浅い空堀と低い土塁が廻らされている。北側の空堀には土橋のようなものも見られるが、かなりささやかなもので、実際に遺構であるかどうかはわからない。東側の堀・土塁は、比較的しっかり普請されているものの、全体的にはかなり小規模なものなので、どこまで城砦としての防御性を有したかは疑問がある。どちらかと言うと、屋敷地の区画という意図で作ったもののように見受けられる。遺構を見る限り、意図不明の城砦である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.837307/140.063581/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


東葛の中世城郭―千葉県北西部の城・館・城跡

東葛の中世城郭―千葉県北西部の城・館・城跡

  • 作者: 千野原 靖方
  • 出版社/メーカー: 崙書房出版
  • 発売日: 2004/02
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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片岡館(茨城県石岡市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6404.JPG←主郭東側の空堀
 片岡館は、歴史不詳の城である。伝承では八代将監という武士の居館であったと言われているようだが、その事績は不明である。
 片岡館は、東筑波カントリークラブというゴルフ場の北側に突き出た、比高10mに満たない台地上に築かれている。現在は北端の主郭のみ残っているが、往時は南に外郭があったらしい。外郭はゴルフ場建設で失われている。主郭は、外周を土塁で囲繞しているが、一部土塁が切れている部分が散見される。土塁はほとんどが1m程の高さしかないが、背後の土塁は2m程で他より高くなっている。主郭の南には車道が通っており、明らかに外郭との間の堀切の跡であるが、幅などは改変されていると思われる。また主郭の東側と西側には、この手の小城砦にしては大きな空堀が穿たれている。最大で7m程の深さがありそうだが、藪が酷く確認が大変である。空堀の外側には土塁が廻らされている。主郭部分だけとは言え、遺構はよく残っているが、城内は全体に藪が多いのが難である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.244870/140.214450/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


東アジアの中世城郭: 女真の山城と平城 (城を極める)

東アジアの中世城郭: 女真の山城と平城 (城を極める)

  • 作者: 臼杵 勲
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/05/22
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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二条山楯(茨城県石岡市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6197a.JPG←主郭北側の三重横堀
                            (クリックで拡大)
 二条山楯(二条山館)は、宇治会館とも呼ばれ、路川氏の城であったと伝えられている。路川氏は、小田一門の宍戸氏の一族であったらしいが、城の歴史共々詳細は不明である。
 二条山楯は、恋瀬川東岸の比高30m程の丘陵上に築かれている。北に源照寺があり、その裏の墓地脇から小道が城跡まで通じている。方形の主郭と、南の二ノ郭から構成された城で、横堀が多用されている。特に主郭の北側では、山形の松ノ木楯で見たような、見事な三重横堀が構築されている。三重横堀は東側では内堀・中堀は腰曲輪に変化している。一方で外堀は主郭全周を囲繞しており、南側に主郭虎口があって土橋が架かっている。また二ノ郭の西側にも横堀があり、主郭西側中腹の横堀に繋がっている。また二ノ郭周囲は一段低く腰曲輪が取り巻き、西斜面には竪堀と竪堀状の城道がはっきりと残っている。南にも祠に通じる竪堀状の参道があるが、遺構かどうかはわからない。二ノ郭の東斜面にも竪堀・横堀が見られる。遺構としては以上で、基本的には方形居館から発展した城と思われるが、横堀群は見応えがある。一部は藪で確認しにくい部分もあるが、藪は全体に少なめである。
主郭南側の横堀と土橋→IMG_6233.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.272433/140.202198/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

※東北地方や茨城では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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