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会田出羽屋敷・越ヶ谷御殿(埼玉県越谷市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN1407.JPG←御殿跡の石碑
 会田出羽屋敷は、16世紀中頃に会田将監幸久が築いた居館である。会田氏は元々信濃国会田郷を本拠とした一族で、信濃守護小笠原氏に仕えていた。虚空蔵山城を中心とする城郭群を築いていた会田氏の一族なのだろう。小笠原氏が武田信玄に敗れると幸久は関東に下り、越谷に屋敷を構えて小田原北条氏に服属した。この地には元々鎌倉時代からの豪族館(古志賀谷二郎為基の系統か?)があったと推測されており、それを屋敷地としたらしい。幸久の子は岩付城主太田三楽斎資正から偏諱を受けて資清と名乗った。以後、代々「資」が通字となった。資清の子資久も北条氏に仕えていたが、1590年に北条氏が滅亡すると、当地で隠居した。

 越ヶ谷御殿は、徳川家康が関東各地に造営した御殿の一つである。北条氏滅亡後に関東に移封となった徳川家康は、1604年に会田資久に屋敷の一部を提供させて、増林にあった御茶屋御殿を移し、越ヶ谷御殿を造営した。家康はしばしば越ヶ谷御殿に宿泊し、民情視察を兼ねた鷹狩を行った。1608年には屋敷地として畑一町歩が会田氏に与えられた。2代将軍秀忠もしばしば越ヶ谷御殿に宿泊した。資久の子庄七郎資勝は、秀忠が越ヶ谷御殿を訪れた際に召されて小姓となり、幕臣に登用された。その子資信は埼玉郡内で500石を与えられ、幕末に至った。一方御殿は、1657年の明暦の大火で江戸城が全焼すると、急遽江戸城二の丸に移築され、将軍の居所になった。その後、御殿跡地は農地になった。

 会田出羽屋敷と越ヶ谷御殿は、前述の通り同じ位置にあった。元荒川が蛇行する部分の自然堤防上にあり、越谷では最も洪水被害が少なかった地点であったらしい。現在周囲一帯は宅地化されている上、御殿跡地の真ん中を放水路が開削されており、遺構は完全に湮滅している。しかし放水路上の緑地に石碑と解説板が立っており、その歴史を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.897403/139.786992/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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