落合砦(岐阜県恵那市) [古城めぐり(岐阜)]
←三ノ郭井戸と主郭群
落合砦は、明知遠山氏の一族串原遠山五郎経景が居城したと伝えられる。串原遠山氏は、その本拠地串原に串原城や大平城があるが、戦国後期の天正年間(1573~92年)に武田氏の勢力が強く及んでくると、明知遠山氏の本拠明知城周辺に移り、その防衛に当たっていたことが推測される。
尚、三ノ郭に明智光秀産湯の井戸があるなど、光秀生誕地とされ、城砦の名も土岐明智城とか多羅砦などとも称されるが、明知城の項に記載した通り、全く史実に基づかないものと考えてよい。
落合砦は、比高60m程の落合山に築かれている。鞍部の尾根によって隔てられた2つの曲輪が南北にあり、より高所にある南の曲輪が主郭、北の曲輪が二ノ郭、鞍部の西下にある平場が三ノ郭と考えられている。城跡一帯は千畳敷公園となって整備されており、かなり改変を受けている。その中では主郭とその周辺は最も旧状を残していると考えられる。主郭は東西2段で構成され、周囲に腰曲輪群を築いている。また大手道が南東に残る他、南斜面に竪堀も確認できる。二ノ郭は、完全に公園化されている上、腰曲輪と思われる平場には電波塔が建っており、かなり改変が進んでいる。しかしここからの眺望は素晴らしく、眼前に明知城が見えるだけでなく、織田信長が本陣を置いた鶴岡山や、武田勝頼が本陣を置いた一夜城などが一望でき、この地の当時の緊張状態をまざまざと見せつけている。三ノ郭は台地上の平場で、前述の通り明智光秀産湯の井戸が残るが、改変されているので、どこまで旧状を残しているのか判断し難い。いずれにしても、落合砦は遺構を見る限り、現地解説板の縄張図や宮坂先生の縄張図よりも腰曲輪の数が多いようで、簡素な城砦の割には主郭・二ノ郭共に広めで、単なる物見や烽火台以上の役割を負っていた様だ。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.298936/137.387713/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
落合砦は、明知遠山氏の一族串原遠山五郎経景が居城したと伝えられる。串原遠山氏は、その本拠地串原に串原城や大平城があるが、戦国後期の天正年間(1573~92年)に武田氏の勢力が強く及んでくると、明知遠山氏の本拠明知城周辺に移り、その防衛に当たっていたことが推測される。
尚、三ノ郭に明智光秀産湯の井戸があるなど、光秀生誕地とされ、城砦の名も土岐明智城とか多羅砦などとも称されるが、明知城の項に記載した通り、全く史実に基づかないものと考えてよい。
落合砦は、比高60m程の落合山に築かれている。鞍部の尾根によって隔てられた2つの曲輪が南北にあり、より高所にある南の曲輪が主郭、北の曲輪が二ノ郭、鞍部の西下にある平場が三ノ郭と考えられている。城跡一帯は千畳敷公園となって整備されており、かなり改変を受けている。その中では主郭とその周辺は最も旧状を残していると考えられる。主郭は東西2段で構成され、周囲に腰曲輪群を築いている。また大手道が南東に残る他、南斜面に竪堀も確認できる。二ノ郭は、完全に公園化されている上、腰曲輪と思われる平場には電波塔が建っており、かなり改変が進んでいる。しかしここからの眺望は素晴らしく、眼前に明知城が見えるだけでなく、織田信長が本陣を置いた鶴岡山や、武田勝頼が本陣を置いた一夜城などが一望でき、この地の当時の緊張状態をまざまざと見せつけている。三ノ郭は台地上の平場で、前述の通り明智光秀産湯の井戸が残るが、改変されているので、どこまで旧状を残しているのか判断し難い。いずれにしても、落合砦は遺構を見る限り、現地解説板の縄張図や宮坂先生の縄張図よりも腰曲輪の数が多いようで、簡素な城砦の割には主郭・二ノ郭共に広めで、単なる物見や烽火台以上の役割を負っていた様だ。
南斜面の竪堀→
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.298936/137.387713/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世山城