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長沢西城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN9180.JPG←枡形虎口
 長沢西城は、単に長沢城とも呼ばれる。明確な歴史は不明であるが、観応の擾乱以来室町幕府に敵対していた元越中守護桃井直常が最後に挙兵した1369年、桃井軍の侵攻を受けた能登守護吉見氏頼がこれを迎え撃って各地で桃井勢を撃破し、逆に越中に攻め込んだ。更に越中守護斯波義将・加賀守護冨樫竹童丸もこれに加勢し、1370年3月16日に直常の嫡子直和を越中国長沢で討ち取っている。この長沢合戦の舞台となったのが長沢城ではないかとされるが、確証はない。戦国末期の佐々成政支配時代には、その家臣寺島牛之助の居城になったとも伝えられるが、これも明確ではない。

 長沢西城は、辺呂川の北側に連なる丘陵地の一角、石山に築かれている。婦中ふるさと自然公園の散策路から行くことができ、長沢東城への分岐点から更に奥に300m程進むと、西城への分岐がある。U字型をした2つの尾根に挟まれた谷部に大きな平場を築いて主郭とした形態の城である。こうした谷中式曲輪の城は、少ないが他県でも類例がある。主体となる平場は、間に仕切り土塁があって南北に分かれている。南の平場は南東から登る虎口があり、これが二ノ郭であろう。奥に位置する北の平場は大井戸があり、これが主郭と思われる。二ノ郭に登る城道は多重枡形虎口となっており、虎口側方には櫓台が築かれている。虎口の右上方には武者隠しと呼ばれる小郭があって、虎口の防御を厳重なものにしている。この大手の多重枡形を出て、道が少し下ったところには、谷側に2本の横掘・土塁が築かれている。その先に道の屈曲がもう一つあり、側方に竪堀と土塁を伴っている。主郭背後には削り残しの尾根があり、上部が削平されて上方から主郭を守る曲輪(B郭)となっている。この曲輪の南に伸びる尾根の中間には櫓台の土壇が築かれている。また南東に伸びる尾根には土塁や小郭があり、先端に堀切が穿たれている。この堀切に谷側から近づいた時、鹿がダッシュで逃げていった。B郭の後部には鞍部の先に小ピークがあり、ここに詰の曲輪であるC郭がある。C郭も北面に土塁が築かれ、背後の尾根には堀切が穿たれている。その先は自然地形の尾根であるが、側方に土塁がある。おそらくこの背後の尾根筋で東城と連絡していたのだろう。以上が長沢西城の遺構で、手の込んだ多重枡形虎口が異彩を放っている。
南尾根の櫓台→DSCN9153.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.650612/137.108088/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世平山城
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