赤見城(栃木県佐野市) [古城めぐり(栃木)]
←主郭西側の重厚な二重土塁
(2005年11月訪城)
赤見城は、佐野市街の西北方にある。藤姓足利氏の足利俊綱が最初に築いたと言われる。その後、藤姓足利氏が没落した後、建久元年(1190年)戸賀崎義宗が城を再興し、以後赤見氏となって佐野氏の領国支配の一翼を担った。しかし永禄2年(1559年)赤見伊賀守が主家佐野泰綱に叛いて城を攻められ、敗れて常陸に落ち延び、その後は佐野氏の支城となったようだ。
城跡は、なんと保育園になっており、子供の誘拐なども騒がれる昨今では近づき難いことこの上ない。主郭の土塁と堀跡が、南側が一部壊されているものの極めて良好に残っており、しかもその土塁の高さが、良くある方形居館跡などのレベルを超えており、まさしく城と呼ぶに相応しい重厚なものである。西側は二重土塁となっていて、さらにその重厚感が増している。現在は主郭しか残っていないが、往時は二の丸、三の丸、西の丸、北の丸などを備えた、立派な複郭式の平城であったようで、若干ながら地形の跡にその名残を見ることができる。しかしほとんどは湮滅していて、その外形を追うことは難しい。
いずれにしても、これほどの重厚な遺構が住宅地の真っ只中に残っていること自体、奇跡に近い。今後も長く保存してもらいたいものだ。
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.353523/139.533750/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
(2005年11月訪城)
赤見城は、佐野市街の西北方にある。藤姓足利氏の足利俊綱が最初に築いたと言われる。その後、藤姓足利氏が没落した後、建久元年(1190年)戸賀崎義宗が城を再興し、以後赤見氏となって佐野氏の領国支配の一翼を担った。しかし永禄2年(1559年)赤見伊賀守が主家佐野泰綱に叛いて城を攻められ、敗れて常陸に落ち延び、その後は佐野氏の支城となったようだ。
城跡は、なんと保育園になっており、子供の誘拐なども騒がれる昨今では近づき難いことこの上ない。主郭の土塁と堀跡が、南側が一部壊されているものの極めて良好に残っており、しかもその土塁の高さが、良くある方形居館跡などのレベルを超えており、まさしく城と呼ぶに相応しい重厚なものである。西側は二重土塁となっていて、さらにその重厚感が増している。現在は主郭しか残っていないが、往時は二の丸、三の丸、西の丸、北の丸などを備えた、立派な複郭式の平城であったようで、若干ながら地形の跡にその名残を見ることができる。しかしほとんどは湮滅していて、その外形を追うことは難しい。
いずれにしても、これほどの重厚な遺構が住宅地の真っ只中に残っていること自体、奇跡に近い。今後も長く保存してもらいたいものだ。
二重土塁の更に西側には→
西の丸があったらしい。わずかに堀跡らしき地形と曲輪跡らしき段差が残る。お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.353523/139.533750/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
2008-04-21 00:11
nice!(2)
コメント(0)
トラックバック(0)
コメント 0