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尾浦城(山形県鶴岡市) [古城めぐり(山形)]

DSC06253.JPG←三ノ丸から見た腰曲輪
 尾浦城は、大浦城とも言い、また後には大山城とも呼ばれ、鶴ヶ岡城の西方6kmの地点、高館山の南東に延びる尾根の先端に築かれた平山城である。築城時期ははっきりしないが、明確に歴史上に登場するのは1532年(天文元年)、大宝寺城(鶴ヶ岡城)を本拠とする大宝寺氏(武藤氏)が庶流の砂越氏に攻められて大宝寺城を焼き払われたため、要害堅固な尾浦城に本拠を移したことに始まる。その後、大宝寺氏は庄内全域への勢力の扶植に努めたが、19代義氏は自らの強勢を恃んで外征を繰り返したため、領内は疲弊し「悪屋形」と呼ばれるに至ったため、最上氏の力を借りた家臣の東禅寺氏(前森氏)を始めとする庄内国人衆が蜂起し、攻め滅ぼされるに至った。その後は最上氏と越後上杉氏による庄内争奪戦が始まったが、その間尾浦城は庄内統治の拠点として重要な地位にあり続けた。
 時代は下って、関ヶ原で覇権を握った徳川家康によって1601年に庄内が最上領となると、最上義光は尾浦城を大山城と改称した。その後、最上氏改易に伴って廃城となった。
 城跡は現在、大山公園となっており神社も建てられているため改変が進んでしまっている。それでも幾つもの削平された曲輪の跡が明確に見られ、本丸の西側には土塁が、また二ノ丸との間には堀切の名残も見ることができる。それぞれの曲輪はそれなりの面積を有し、居住性を併せ持った庄内地方のの統治拠点であったことがわかる。この地域では極めて重要な城であったのだから、もう少し縄張図や標柱などを充実させて、わかりやすくしてもらえると助かったのだが。
本丸と二ノ丸の間の堀切→DSC06278.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.754000/139.760900/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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