SSブログ

左沢楯山城 その1(山形県大江町) [古城めぐり(山形)]

DSC06654.JPG←本丸側から見た三ノ丸
 左沢(あてらざわ)楯山城は、寒河江大江氏の一族左沢元時が築いた山城である。大江氏は、鎌倉幕府草創期の重臣大江広元で知られるが、その長男の親広は承久の乱であろうことか上皇方に加担したため、戦後幕府の目を逃れて所領の一つ寒河江荘に落ち延びて潜居し、寒河江氏の祖となった。そして寒河江氏七代の時茂が三男の元時を置賜方面に向かう街道を押さえるために左沢に入部させ、左沢氏を称して楯山城を築いたという。これがまさに南北朝の動乱期の正平年間(1346~70年)のこととされる。その後、左沢元時は1368年の漆川の戦いで寒河江宗家と共に南朝方として斯波兼頼率いる北朝方と戦ったが敗れて自刃した。しかし左沢氏はその後も国人領主として戦乱の世を生き延びたが、戦国末期に最上義光が寒河江荘に侵攻した際、寒河江氏と共に滅んだ。

 左沢楯山城は、その規模や縄張りなどあまり知らずに訪れたのだが、極めて規模の大きい城である。山形県内の山城では最大級の規模かもしれない。現在一部が楯山公園となっているがそれは三ノ丸のエリアだけにすぎず、三ノ丸から谷を挟んで北側に本丸エリア、また三ノ丸から東の稜線を辿ると二ノ丸エリアが展開する。本丸エリアは、三ノ丸エリアに立てられた「朝日少年自然の家」が畑などで使用しているが、谷間も含めて展開される削平地は全て当時の曲輪跡だったようである。本丸エリアは中心の主郭を最高所に置き(八幡座といわれる)、北、南東、西の三方に段曲輪を幾重にも配置している。この周囲の段曲輪はそれぞれそれなりの広さを持っていて、かなりの居住性を有していたことが想像される。北西に少し下がったところには、北曲輪と呼ばれる広い曲輪もある。ここは現在自然の家の菜園になっている。三ノ丸エリアは本丸エリアとは谷を挟んだ独立峰になっており、やはり最高所に主郭を置き、周囲に袖曲輪、段曲輪を配置している。駐車場になっている場所も段曲輪の一つであったろう。二ノ丸は三ノ丸から行くことができるようだが、この城を訪れたのが真夏だったため、クモに弱い私はそれ以上深入りせずに撤収した。全体に規模が大きく、地方の国人領主の城にしては不釣合いなほどである。ただ城の構造は、基本的に削平地を重ねただけの素朴な形態で堀切などの技巧性はなく、あまり面白味は感じなかった。また、本丸、二ノ丸、三ノ丸がかなり分散して配置されており、あまり防御思想のわからない城という印象を受けた。

 なお帰ってきてから知ったが、ちょうどいろいろな発掘研究が盛んになっている城で、2008年度の全国山城サミットがこの地で10月に開催され、今年度の文化審議会答申で左沢楯山城は国の史跡に指定されることになった。まさにホットな話題の渦中にある城である。規模も予想以上に大きく、今回見て回ったのは全体の半分にも満たないことがわかった。千畳敷や寺屋敷と呼ばれる広い曲輪も東側に展開しているようである。国の指定史跡になったということで、今後は今まで以上に整備が進むと思われるので、数年後にあらためて再訪したい。ちなみに「藤井戦国史」によれば、周辺住民の逃げ込み城というかなり特殊な役割の城だった可能性があるようだ。

  参照HP:http://www.sengokushi.com/c6/siro/index.php?cid=8

本丸の主郭周囲の段曲輪→DSC06676.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.387727/140.215342/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※後日再訪した記録はこちら
nice!(3)  コメント(2)  トラックバック(1) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 3

コメント 2

ノリパ

今の地形からかつての姿、威容を想像する、ロマンがありますね。
有名なお城跡なんですね。往時を今に伝えていかないとダメですね。
by ノリパ (2008-12-28 17:41) 

アテンザ23Z

東国では西国と違って、山城が史跡としてきれいに整備されている事例は数えるほどしかありません。
良好な遺構が手付かずで残っていても、誰にも知られることなく埋もれています。惜しいことです。
by アテンザ23Z (2008-12-29 22:59) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント

トラックバック 1