SSブログ

花園城(埼玉県寄居町) [古城めぐり(埼玉)]

DSC10327.JPG←岩盤をぶち抜く堀切
 花園城は、武蔵天神山城を本拠とする武蔵七党の一、猪俣党の別れ藤田氏の城である。一説には、北条氏邦の養父藤田康邦の居城であったともいう。河越夜戦で南関東の覇権を握った小田原北条氏に服した康邦は、北条氏康の三男氏邦を養子に迎え、天神山城や花園城を氏邦に譲り、自身は用土城に隠居したという。その後氏邦は本拠を鉢形城に移し、花園城をその支城として整備した。1590年の豊臣秀吉の小田原攻めで鉢形城が落ちると花園城も落城し、そのまま廃城になった。

 花園城は、鉢形城の北西2km程のところにある比高80m程の山城である。山頂部は東西に緩やかな傾斜をなした平坦部が広がり、その間を3本の堀切で分断して4つの曲輪を並べた構成である。これらの曲輪の南側には何段もの腰曲輪が構築されて、万全の備えをなしている。この城で特徴的なのは、横堀と竪堀を連結した構造で、横堀を90度屈曲させてそのまま斜面を駆け下る竪堀としている箇所が数箇所に上る。また二重竪堀を数箇所設けているのも特徴的で、これらの構造が藤田氏系城郭の特徴であるらしい。同様な構造は、天神山城や千馬山城でも見ることができる。山頂を分断する堀切は、いずれも岩盤を掘り切った豪快なものである。また主郭や南面の腰曲輪には、ところどころに石積みが残っている。しかしどれも規模は小さく、土塁を補強する程度のもののようである。

 遺構はほぼ完存しすばらしいの一言に尽きるが、如何せん全山藪がひどく、全く見通しが利かない。もう少し整備してくれるとありがたいのだが。できれば石碑だけでなく解説板も建ててくれるとうれしいところである。
二重竪堀→DSC10278.JPG
DSC10409.JPG←腰曲輪の石積み

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.122360/139.172222/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
nice!(3)  コメント(5)  トラックバック(1) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 3

コメント 5

ノリパ

岩盤をものともしない、というかブチ抜くとはすごい。これはいつか
見に行かないといけないですね。解説版はぜひアテンザ23Zさんが
書いてください。
by ノリパ (2009-03-11 22:04) 

アテンザ23Z

>ノリパさん

埼玉北部の山はどこも岩山が多いようで、
ほかにも岩盤を掘り切っている城がいくつもあります。
戦国時代って、すごい労力、というか執念ですよね。
by アテンザ23Z (2009-03-12 01:04) 

武蔵国住人

はじめまして.花園城で検索したところ見かけましたので何かの縁と思いのぞかせていただきました.私は花園城城主の子孫にあたる者です.この諏訪神社は地元では御諏訪様と呼びお祭りしています.そしてこの神社の社の一番上のほうにある石碑が先祖が死んでもこの土地を守るといった意味で建てた鎮守の青石塔婆です.しかしここらへんは毒蛇や狩猟用の罠があるので気を付けてくださいね.
by 武蔵国住人 (2009-04-25 10:39) 

アテンザ23Z

>武蔵国住人
当ブログへの訪問ありがとうございます。
藤田氏の御子孫とは恐れ入りました。
毒蛇もいるとは(マムシですか?)、藪もひどいし、夏場には絶対行けない城ですね。
この地域には青石塔婆が多いですが、独特の風習なのでしょうか。
今後も色々とご教示いただければ幸いです。
by アテンザ23Z (2009-04-26 02:14) 

武蔵国住人

ご丁寧にありがとうございます.我が家は平安時代末期に端を発します家柄で.麓の藤田善導寺には血族の新田義貞の兄弟の墓があります.マムシもなんでもいますし最近は獣もでるそうです.青石塔婆については話すと長くなりますが.長瀞で採掘された青石を船に積んで荒川を下って下流のほうえ運んだらしいのですが.長瀞より上流になると今度は青石ではなくほかの素材で作られるようになります.青石は身分の高い武士や僧侶でなくては建てられなかったようです.岩一つにしてもいろいろと深いものですね.今後もいろいろ楽しみにしています.
by 武蔵国住人 (2009-04-26 23:20) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント

トラックバック 1