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浄福寺城(東京都八王子市) [古城めぐり(東京)]

DSC04163.JPG←最北端の二重堀切
 浄福寺城は新城、案下城、二条城、松竹城、千手山城などとも呼ばれ、南武蔵の豪族大石氏が案下道を押さえるために築いた山城である。(なんと異称の多い城であろうか。)大石氏は木曽義仲の後裔とされ、信濃大石郷に住んで大石氏を名乗ったとされている。南北朝期の1356年に入間・多摩に所領を得て多摩に移住し、二宮城、案下城(浄福寺城)、高月城滝山城と城を移しつつ、大豪族に成長した。室町中期には武蔵守護の上杉氏の下で、守護代を務める勢力にのし上がっていた様である。その後、伊勢宗瑞(北条早雲)に始まる小田原北条氏が勃興し、3代氏康の時、河越夜戦で山内・扇谷の両上杉氏を駆逐して関東南半の覇権を握ると、大石定久は北条氏に降って、氏康の次男氏照を養子に迎えて当主の座を譲った。以後、氏照に率いられた大石氏を主力とする軍団は、滝山衆という北条氏きっての強力な兵団となり北関東制圧に奮戦していくこととなった。氏照が後年、八王子城を新たに築くと、そのすぐ北に位置する浄福寺城は八王子城の北の防衛拠点として整備されたようだが、1590年の小田原の役で八王子城が落城すると、浄福寺城も廃城になったと思われる。

 浄福寺城は、麓の浄福寺の裏山一帯に広がる比高146mの山上に築かれている。西から東に伸びた後、真北に伸びる、ほぼL字状に曲がる稜線上に曲輪を連ね、更にその稜線から南方へ伸びる3つの尾根にも曲輪を連ねた構造で、一番西に当たる最高所に主郭を置き、要所を堀切で分断した典型的な山城の縄張である。主郭の置かれる稜線上や派生する尾根の上は幅が狭いため、主郭を除く各曲輪の幅は狭くどれも縦長に伸びた形をしている。その分、城の全長はかなり長い。堀切はどれもさほど大きいものではないが数が多く、全部で20本近くあるだろうか。稜線の最北端は二重堀切で防御している。この最北端部の東側斜面には緩い傾斜の平場が広がり、馬場か家臣屋敷が置かれていたのではないかと考えられる。不思議なのは斜面上に数本の堀状の遺構があり、一部の資料では畝状竪堀としているようだが、竪堀というより連続横堀か畝状阻塞に近く、どのような防御思想で作られたのか判然としない。また稜線から南東に派生する尾根の先にも平場が広がっていて、やはり馬場か居館が置かれていたのではないかと考えられる。

 以上が縄張の概要であるが、痩せ尾根を利用して作られた城のせいか、どの曲輪も小さく兵の駐屯には向かない。また鉢形城松山城の支城群(小倉城腰越城天神山城など)と較べると、技巧的な縄張りがほとんど無く、同じ北条氏の城でも随分印象が違うものだと感じた。大石氏が築いた城をほぼそのまま転用したということなのだろうか。
最北端、東斜面の連続横堀(?)→DSC04176.JPG
 奥は馬場か?

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.671025/139.246537/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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ノリパ

そんなに沢山の兵をおけなかったんですね。
八王子城のおまけですかね。
by ノリパ (2009-05-31 17:51) 

アテンザ23Z

>ノリパさん
城の範囲は広いのですが、
ほとんど痩せ尾根ばかりなので。
それでも200~300の兵は置けたんでしょう・・・。
by アテンザ23Z (2009-06-01 00:28) 

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