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八王子城 その1(東京都八王子市) [古城めぐり(東京)]

DSC04363.JPG←西北沢石垣群の石垣
 八王子城は、小田原北条氏の築いた巨大山城である。織田信長から豊臣秀吉に時代が移り、日本の歴史が天下一統へ進んでいた時代に築かれたため、「戦国最後の山城」と呼ばれている。北条氏康の次男で大石氏に入嗣した北条氏照が、1584年~87年の間に築いた。それより前、甲斐の武田信玄が、桶狭間の戦いで主君を討たれて以後、衰亡の一途をたどっていた今川氏を滅ぼして駿河を手に入れたことにより、甲相駿三国同盟が破れると、北条氏と武田氏は激しく対立することとなった。そして1569年、信玄は大軍を率いて鉢形城滝山城を攻め、次いで北条氏の本城小田原城を攻めるに至った。この時、滝山城は、広大な城ながら丘陵上に築かれた平山城であったため、あとわずかで落城するところまで追い詰められた。滝山城主の氏照は、この戦いの教訓から山城の要害の必要性を痛感して、新たに八王子城を築いたと言う。その後、豊臣政権との緊張関係が増してくるにつれて、北条氏は領国内の防衛体制の整備を急ぎ、八王子城も1588年には戦時体制に突入した。しかし1590年に秀吉の北条討伐が始まると、城主北条氏照は精鋭を率いて小田原城に詰めたため、1000足らずの兵しか残っていなかった八王子城は1万5千の大軍の攻撃を受けた。そして、氏照が心血を注いで整備した巨大山城も衆寡敵せずわずか1日で落城し、見せしめのため守将以下城兵ことごとく殺戮された。小田原城にいた氏照は八王子城落城の報を聞いて、床を叩いて号泣したと伝えられる。

 八王子城は根小屋式の山城で、大きく3つのブロックに分かれている。

<居館地区>
 麓に御主殿と呼ばれる氏照の居館があり、国指定史跡となったことで、御主殿周辺はきれいに発掘・復元整備されている。織田信長の安土城をモデルにしたと言われ、関東の中世城郭には珍しく大規模な石垣が築かれている。特に御主殿の虎口から登る大手道は石段と石垣で囲まれ、さながら安土城の大手道の様である。虎口に向けては大きな引き橋(復元)が架かり、戦時には切り落として防御する構造である。また御主殿の曲輪外周には土塁が残り、背後の斜面の際には石積み跡らしい遺構が残る。更にここから山上に向けての登城道には数段の石垣(西北沢石垣群)が良好に残る。この石垣群への登城道には多数の石が散乱しており、かつては石段が築かれていたのではないかと思われる。また、御主殿から少し東に離れた大手門付近にはアシダ曲輪・山下曲輪などの平場が残り、一部に石垣の残欠もあるようだ。
御主殿の虎口→DSC04337.JPG
DSC04594.JPG←御主殿周囲の石垣(復元)

<要害地区>
 いわゆる山城部分である。巨大山城の中心にしてはさほど広くない本丸と、それを取り巻くように松木曲輪・小宮曲輪・中の曲輪・無名曲輪などの広い曲輪群と多数の腰曲輪・段曲輪群で構成される。また麓の山下曲輪から伸びる登城道に沿って、馬蹄形段曲輪群とその防衛指揮所に当たる金子曲輪、その少し上に木戸口に当たる柵門跡が残る。また無名曲輪から西に斜面を下ると、馬冷し場と呼ばれる大堀切があり、そこから尾根沿いに登っていくと詰の城と呼ばれる大天守跡が残る。大天守は往時は石垣で構築されていたようだが、現在はかなり崩落が進んでいる。本丸と天守台が離れた別体構造になっているのは、笠間城などと同じ縄張思想であろうか。また尾根道には石が散乱し、かつては石段があったのかもしれない。大天守の背後にも大堀切がある。
大天守周囲の石垣→DSC04507.JPG

<根小屋地区>
 かつての家臣団居住区、兼、城下町であるが、現在は住宅地になっている。また南に横たわる尾根には、太鼓曲輪という外郭があって、根小屋と居館を防御していたようだ。

<太鼓曲輪地区>
 南の尾根上に太鼓曲輪と呼ばれる曲輪群が存在した。後日訪城した記録はこちら

 以上が城の概要である。城域は広く、巨大山城であることには間違いないが、思いのほか要所を分断すべき堀切が少なく、竪堀も数が少ない。要害部で見応えのある遺構は、唯一、大天守背後の大堀切であろうか。曲輪は多いが、それらをつなぎ合わせただけの随分古風で防御性の低い縄張りに感じられた。1日で落城したのも無理からぬことかもしれない。浄福寺城と合わせて見るとよくわかるが、同じ北条系城郭と言っても、北武蔵の城と比べるとその築城思想がかなり異なっているようだ。これは、鉢形衆・松山衆・滝山衆など、それぞれの軍事集団で個別に、系列の異なる築城技術者を抱えていたのではないだろうか。この問題については、いずれ相模の城も見た時にまた考えてみたい。
 尚、要害地区は国指定史跡でありながら藪化が進んでおり、場所によっては遺構の確認が困難である。マンガ館なんてくだらん物作る金があったら、史跡整備に金を使ってほしい。何十億円もの予算で、かなりの史跡整備ができるはずである。金の使い方を知らない国の官僚はホントに馬鹿だ。

※その後、要害部を再訪した記事はこちら

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.652885/139.252160/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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コメント 2

ノリパ

大きいと聞いてますけど、1日で落城したんですね。
防御性の低い造りだったんですね。いろいろと見方があるんですね。
ホントに勉強になります。
by ノリパ (2009-05-31 17:54) 

アテンザ23Z

>ノリパさん
個人的にはイマイチと感じました。
でも所詮は多勢に無勢で、
縄張りの問題ではなかったかもしれませんが。
by アテンザ23Z (2009-06-01 00:24) 

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