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清水城(山形県大蔵村) [古城めぐり(山形)]

DSC09118.JPG←本丸の空堀
 清水城は、最上氏の庶流清水氏の居城である。1476年、山形城主最上義春は北方の押えと最上川の水運掌握の為に、この地に成沢城主成沢兼義の子、孫次郎満久を配し、満久は白須賀元館を居館とした。しかし2年後の1478年、風光明媚で要害険阻な比良台に新たに清水城を築いて居城を移したと言う。清水城は庄内と村山地方を結ぶ要衝で、山形城主最上氏と大宝寺城主武藤氏との間で何度も争奪の場となっている。後に清水氏は嫡統が絶え、最上義光の三男義親が入って清水氏を継いだ。しかし義光死後、最上家を継いだ家親と清水義親は対立するようになり、しかも義親はかつて豊臣家に近習として仕えていたことから、豊臣秀頼を滅ぼそうと企図する徳川家康から内通の疑いを掛けられたため、最上家親は義親を攻め滅ぼした。清水城はこのとき廃城となった。

 清水城は最上川左岸の河岸段丘上に築かれた典型的な崖端城で、先端から順に本丸・二ノ丸・三ノ丸と続き、本丸の先にもささ曲輪とも言うべき段曲輪が数段築かれている。二ノ丸・三ノ丸は畑となっているが二ノ丸の土塁と空堀が良く残っていて、見応えがある。また二ノ丸の北には馬出しと2本の空堀を越えて、公園化された本丸がある。この堀や馬出しも遺構が良好に残っている。二ノ丸外堀も含めて、空堀は全て一直線に伸びていて、横矢などが掛かった複雑なものではない。二ノ丸から本丸に掛けては、東面に幾つもの腰曲輪も見ることができる。また東の興源院という寺の近くの山腹にはわずかに横堀らしい跡が見られ、三ノ丸の外堀があった可能性がある。
 腰曲輪付近は藪化しているものの、遺構は良く残っている。何より一直線に伸びる大きな空堀が素晴らしい。
本丸北の段曲輪の土塁→DSC09183.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.699360/140.225437/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
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