SSブログ

盛岡城(岩手県盛岡市) [古城めぐり(岩手)]

DSC09950.JPG←腰曲輪南側の重厚な石垣
 盛岡城は、不来方城とも言い、盛岡藩南部氏の居城である。南部氏は、新羅三郎源義光の4代の孫加賀美遠光の3男光行が、甲斐国巨摩郡南部郷を領して南部氏を名乗ったのに始まる。源頼朝の奥州征伐に従って軍功を挙げ、陸奥北部の糠部郡に所領を得て下向した。南部氏は、南北朝期には、鎮守府将軍北畠顕家に従って奥州南朝側の有力武家として活躍した。全国の南朝方武家が多く没落していく中で、南部氏は生き残り、戦国期を生き抜いて豊臣政権下の近世大名として存続することに成功した。南部氏は三戸城を居城としていたが、1591年九戸の乱討伐の援軍として来た浅野長政の助言に従い、時の当主南部信直は不来方の地に築城を開始した。この地には元々、南部氏の家臣福士氏の不来方城(淡路館・慶善館)が存在したらしい。こうして盛岡城の築城は始まったが工事は難航し、なんと3代41年間掛けて城を完成させ、以後、幕末まで南部氏歴代の居城となった。

 盛岡城は日本100名城に選ばれただけあって、壮大な石垣群が圧巻の近世城郭である。旧北上川と中津川の合流点の丘陵上に築かれた城で、南から北に向かって本丸・二ノ丸・三ノ丸を一直線に並べた連郭式の縄張を基本形とし、その周囲に幾つもの腰曲輪を設けた構造である。面白いのは、近世城郭には珍しく、三ノ丸が城の中枢部の中に取り込まれていることである。普通の近世城郭は、中枢部の一回り外側に広大な三ノ丸があり、大抵は市街化して遺構が湮滅しているものだが、盛岡城の三ノ丸は非常に小振りで、第二の二ノ丸とも言うべきものである。各曲輪は全周壮大な石垣で囲まれ、虎口の石垣も良く残っている。ただこれらの石垣は、よく見ると所々外側に膨らんでおり、地盤の弱さを感じさせる。難工事の所以であろう。本丸と二ノ丸の間は石垣で築かれた深い堀切となっていて、本丸への侵入を阻止する構造となっている。城の外周は、かつては全周水堀で囲まれていたが、現在では半分以上が埋め立てられて公園化し、北側と東側に残るだけとなっている。

 広さとしては山形城二ノ丸の1/3程しかなく、近世城郭としては比較的こじんまりとまとまった城ではあるが、東北で石垣の城を見るなら、弘前城とこの盛岡城がベストであろう。
本丸と二ノ丸の堀切→DSC09919.JPG
DSC09906.JPG←東側の外堀跡

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.699857/141.150155/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
nice!(7)  コメント(2)  トラックバック(1) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 7

コメント 2

ノリパ

素晴らしいところですね。いつか行きたい。早く行きたい。デス。
by ノリパ (2009-08-25 18:29) 

アテンザ23Z

>ノリパさん
私も、西の城に行きたい!早く行きたい!!デス。
やはり、西国の平城が石垣ではベストでしょう。
たぶん西に行ったら、五つ星が連発になると思いますよ。
by アテンザ23Z (2009-08-27 00:12) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント

トラックバック 1