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雉ヶ岡城(埼玉県本庄市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC10005.JPG←南ノ郭と東ノ郭間の堀
 雉ヶ岡城は、八幡山城とも呼ばれ、元々関東管領山内上杉氏の居城として築かれたと伝わっている。その後、地形が狭い為、山内上杉氏は上州平井城に移り、雉ヶ岡城には家臣の夏目豊後守定基を置いて守らせた。戦国後期になって、小田原北条氏の勢威が北武蔵を席巻すると、雉ヶ岡城は鉢形城に本拠を置く北条氏邦によって攻略され、以後、鉢形城の支城となった。1590年の小田原の役で、前田利家によって落城。徳川家康の関東入封後、松平家清の居城となったが、関ヶ原の合戦の功によって三州吉田に転封になると廃城となった。

 雉ヶ岡城は、児玉市街の北西端に築かれた城で、大分類としては平城に入るが、丘の様な地形を巧みに取り込み、その間を堀で分断して曲輪を形成した城で、見た感じでは丘城である松山城の印象に近い。城跡は南ノ郭周辺が城山公園として残っているほかは、本郭など大半が学校建設などによって破壊され、城域の1/3程度が残存しているに過ぎない。しかし、残存する部分の遺構は非常に良く残っており、特に南ノ郭周囲の堀は見事である。また南ノ郭とニノ郭をつなぐ馬出しは、改変されているものの堀跡も残っていて、馬出し形状がよくわかる。鉢形城に見られる角馬出しと同じ構造なので、おそらく北条氏が改修したものであろう。又、南ノ郭・東ノ郭の土塁や、本郭・ニノ郭東側の櫓台を兼ねたと思われる土塁も良好に残っている。
 国土変遷アーカイブの写真を見ると、1960年代までは城域の2/3が残っていたようである。それを考えると、その後に破壊された部分は非常に惜しいが、それでも中世城郭の雰囲気満点の城である。
南ノ郭と二ノ郭間の堀→DSC10012.JPG
DSC10076.JPG←校門脇に残る東ノ郭の土塁

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.193032/139.127641/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
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