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金窪城(埼玉県上里町) [古城めぐり(埼玉)]

DSC10104.JPG←金窪城の土塁跡
 金窪城は、太瑯城とも呼ばれ、神流川に臨む台地上に築かれた平城である。平安末期の治承年間(1177~81年)に、武蔵七党の一つである丹党の加治家治が構築したと言われ、その後、元弘年間(1331年~34年)に、新田義貞が修築して家臣の畑時能に守らせたと言う。室町期には斎藤別当実盛の子孫、盛光が居城した。
 この城が大きくクローズアップされるのは、戦国末期である。1582年3月、武田家を滅ぼした織田信長は、滝川一益を 厩橋城に置いて関東管領とし、上州を押えさせた。しかし同年6月、本能寺の変で信長が討たれると、北条氏直は直ちに鉢形城の北条氏邦の軍勢と共に上野に侵入し、滝川一益の軍勢と神流川で決戦した。神流川の戦いである。この時の金窪城主は斎藤定盛で、北条方であったが、神流川の合戦の序戦で滝川方の攻撃を受け落城したと言われている。神流川渡河の橋頭堡として重要な拠点だったからなのだろう。金窪城は兵火にかかって消失、斎藤氏一族は悉く討ち死にして没落した。しかし序盤は劣勢だった北条方は体制を立て直して反撃。この戦いで大敗した一益は本領の伊勢長島に逃げ帰った。小田原北条氏が滅んで徳川家康が関東に入封すると、川窪氏の所領となって陣屋が置かれたが、丹波に移封になると廃された。
 金窪城は、場所はわかりにくいが小さいながらも城址公園が作られ、石碑も置かれている。その背後にはほとんど唯一の遺構である土塁が残る。それ以外は宅地化・耕地化で見る影もないが、関東に平城であれば致し方のないところであろう。わずかに土塁が残っているだけでも唯一の救いである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.268074/139.139013/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
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