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石戸城(埼玉県北本市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC01868.JPG←切通しの道と両側の曲輪
 石戸城は、荒川左岸の台地上に築かれた城である。岩槻城松山城河越城との連絡の為に築かれ、当初は扇谷上杉氏の家臣藤田八右衛門が城主であったと伝えられている。1525年には小田原の北条氏綱が上杉朝興方の岩槻城主太田道可資頼を攻めて陥落させたが、その際資頼は一時石戸城に逃れたと言う。1562年には、北条氏政の命により鉢形城主北条氏邦が鉢形衆を率いて上杉謙信方の毛利丹後守が守る石戸城を攻めたが容易に落ちず、北条勢は多くの死傷者を出した。しかし氏邦は、暗夜に乗じて城の東側の谷地に一夜にして土橋を築き、一気に城へ攻め上って勝利したと伝わっている。この土橋は現在「一夜堤」と呼ばれて残っている。落城後は北条氏の家臣依田大膳亮が城主となった。以後の歴史は定かではないが、1590年の小田原の役の際、多くの城と共に落城したのだろう。

 石戸城は現在公園や宅地となっていて、遺構の改変が進んでおり、どこまでが旧状を残しているのか俄かには判断しがたい。しかし城域の中央を南北に切通しのような道が通り、その両側は小高い丘になっているが、道は堀切で、丘はおそらく削平された曲輪であったと思われる(行ったのが夏場だったので藪突入はしなった)。この一帯が主郭などの中枢部の曲輪であったことが想像される。北側には何段かの腰曲輪らしきものも散見されるほか、周囲には曲輪や切岸らしい地形が幾つも見られる。東側一帯はいまだに低湿地帯となっていて、その中に前述の一夜堤が残っている。城郭遺構としてはあまり大したものには見えないが、かつては低湿地帯と荒川と言う天然の堀に守られた要害だったのだろう。
 城は大したことはないが、北条氏邦が築いた一夜堤は、北条ファンならば見て損はないであろう。
北条氏邦が築いた「一夜堤」→DSC01880.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.009490/139.506090/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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