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小松城(石川県小松市) [古城めぐり(石川)]

IMG_3972.JPG←本丸堀石垣と天守台
(2003年11月訪城)
 小松城は、加賀前田家3代利常が隠居城として築いた城である。元々は、戦国後期に一向一揆衆が越前朝倉氏に備えて築いた城と言われている。1576年には一向一揆の部将で元本願寺家臣の若林長門が城主であったが、1579年に織田軍の北陸方面軍総司令官であった柴田勝家に攻められて落城し、信長は村上頼勝を城主とした。その後、信長が横死し、豊臣秀吉が天下を握り、1598年に越後に移封された頼勝の後に、秀吉の命で松任城の丹羽長重が小松城に入った。長重は関ヶ原の戦いの際に西軍側に付いたため没落し、小松城は加賀前田氏の持ち城となり城代が置かれた。1639年、名君として名高かった前田利常は、老齢のため長子光高に藩主の座を譲って隠居し、幕府に隠居城として小松城を整備することを申請した。そして一国一城令の数少ない例外として、整備を許された。本丸には天守も造られたが、太平の世の城であり、数奇屋風の小さなものだった。

 小松城は、梯川の蛇行によって作られた沼地を利用した平城で、金沢城の倍近い広大な城域に八つの曲輪を渦郭式に並べ、総面積の3割を堀が占める、まさに沼に浮かぶ水城で、往時は「小松の浮城」と呼ばれた。表向きは隠居城であったが、その規模と防備の固い曲輪配置から考えると、有事の際の金沢防衛の為の城だったのだろう。しかし現在では市街化で城はほとんど破壊され、わずかに県立小松高校のグラウンドの片隅に、天守台石垣と本丸堀石垣が残るだけに過ぎない。本丸と二ノ丸は高校の敷地となり、三ノ丸は芦城公園となっている。明治維新後の解体が恨めしい城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.412588/136.443511/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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