SSブログ

諏訪山城(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSC06108.JPG←二ノ郭虎口の内枡形
 諏訪山城は、皆川氏の家臣平野大膳が戦国末期に築いた山城である。場所的には鹿沼城に本拠を移した壬生氏と皆川領との中間に位置するので、同じ小田原北条氏の傘下となった壬生氏と連携して、宇都宮氏を包囲する為に築いた城ではないかと、個人的に推測している。1588年には佐竹氏の後援を受けた宇都宮国綱が皆川領に侵攻し、皆川広照自ら諏訪山城に拠ってこれを阻止せんとしたが攻められて落城し、広照は布袋ヶ岡城に逃れたと言う。

 諏訪山城は、ネット上ではほとんど無名の城であるが、昨冬鹿沼の山城群の素晴らしい遺構を見て回って、この城もきっと期待できそうだと考えて、ようやく今冬訪城したのである。しかしネットにほとんど記載が無いので、まず場所が明確でない。ただ鹿沼市のある資料に、「深程の無量寿院の裏に築かれた」とあり、そこから場所を推定した。登り口も当然わからなかったが、現地に着いてから無量寿院前の道路を少し登ると、民家の横に山側に登っていく道があったので、ここから登っていくことにした。しかしこの道、どうも臭う。この登り道の右側に給水施設が作られているが、その上の道沿いに段曲輪状に平場が何段もあるのである。また周囲を見ると、道の左側に沿って竪堀状の溝が走っている。「まさかまだ登り始めたばかりで、山頂は遥か先だというのに・・・」と、不思議に思いながら登っていくと尾根の上に登り着いた。そこは平坦になっており、登り口のすぐ左側は土塁状に盛り上がっている。「これはもしや・・・」とその上に登って、先程の竪堀状溝の最上部を覗き込むと、そこには見事な堀切が!いきなりのビンゴである。そこから高低差60mの山頂までは驚きの連続で、よくもこれほどの城がほとんど無名でいたものだと思った。

 先程の堀切が城域の最も南に当たり、そこから細長い平場が尾根に沿って20m程続くがその先に城中最大で深さ4m程の堀切がある。堀切のすぐ右手下方には横堀が掘られ、この横堀は屈曲しながら100m以上にわたって続いている。規模は大きくはなく深さ1.5m程に過ぎないが、明確に横矢を意識していて3ヶ所で直角に折り曲げて、東端は直下に曲げて竪堀にして落としている。この竪堀の横には、上の曲輪に登る坂虎口と帯曲輪がある。帯曲輪は土塁で防御していて、坂虎口はこの土塁に連結している。この虎口構造は、天神山城東出曲輪や唐沢山城の南東虎口遺構とそっくりで、藤田氏の築城技術を継承した小田原北条氏鉢形衆の城によく見られる構造である。この上が四ノ郭でここから三ノ郭に登っていく。三ノ郭に登る登城道は小枡形を通って、三ノ郭の向かって左側の一番奥に続いている。この間、登城道は頭上の三ノ郭の塁壁上から丸見えで、侵入する敵を迎撃できるよう考えられている。登城道奥には両側を土塁で防御した虎口が作られ、虎口左側は横堀状の帯曲輪があって三ノ郭虎口の守りを固め、右側には120度ほど向きを変えて三ノ郭に入って行く。三ノ郭は馬蹄形の大きな段曲輪だが、規模はさほど大きくは無い。更にそこから登っていくと二ノ郭に至るが、二ノ郭虎口は内枡形になって掘り込まれ、外には馬出しが作られて登城道を90度屈曲させる、厳重な虎口構造をしている。鹿沼の城で、これほど虎口が巧妙に作られている例は少ない。皆川氏の城としても異例である。後で気付いたが、内枡形には石積みもあったようだ。

 二ノ郭は西側に物見を兼ねたと思われる尾根上の高台を削り残した広い曲輪で、本郭の東側まで伸びている。その先は不摩城の様に竪堀で東側の腰曲輪と分断されている。本郭は、二ノ郭高台から堀切を介して坂虎口で繋がっており、ほぼ三角形の形状をしている。北頂点付近と西頂点付近は一段低くなっていて、西には更に2段ほどの段曲輪が下方に築かれている。その先には特に堀切は無いようだ。一方、二ノ郭から続く東側尾根には堀切がなく、小さな土塁があるだけで、そのまま進むと小ピークに達し、ここが東の物見台であったことが、腰曲輪が築かれていることからわかる。

 以上が城の主要部であるが、下山して四ノ郭下の横堀まで来ると、ここから無量寿院の方に向けて道が続いている。これを降りていくと広い4段ほどの平場が築かれていて、見るからに居館があった場所のようである。その麓からの入口部分には食違いの土塁まで残っており、居館地区であったことがほぼ間違いないようだ。ここから見ると、最初に登った道沿いの平場から竪堀が落ちているのがわかった。これで最初の平場も段曲輪群であったことがはっきりした。給水施設が作られた場所も、段曲輪の一つだったのだろう。

 諏訪山城は、約100mの高低差の中に様々な曲輪や防御施設を作り込んだ山城であった。横堀等さほど大きいものではないが、皆川氏の城郭では他に類例がないほど小技の利いた縄張で、おそらく皆川氏が北条氏に降った後に北条氏から派遣された技術者が参画して作った城ではないだろうか。やはり鹿沼の城はハズレなしである。
四ノ郭南の堀切→DSC06026.JPG
DSC06035.JPG←四ノ郭周囲の横堀
三ノ郭虎口→DSC06088.JPG
DSC06109.JPG←二ノ郭、奥は物見の高台
曲輪を分断する竪堀→DSC06113.JPG
DSC06148.JPG←堀切と主郭虎口

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.501763/139.703983/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
nice!(5)  コメント(2) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 5

コメント 2

ノリパ

導かれるようにたどり着く。素晴らしいですね。
まさにキャッスラー。それがしは、適当に走って、城にたどり着く
というくらいしか経験はないです。みんなが知らないところを発見する
くらいまでには到底いかないっスね。
by ノリパ (2010-03-20 21:30) 

アテンザ23Z

>ノリパさん
導かれるように・・・。
う~ん、そうかもしれません。
城に吸い寄せられるようになってきたんでしょうか。
by アテンザ23Z (2010-03-21 15:07) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント