北新波砦(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]
←横矢の掛かった土塁と空堀
北新波砦は、西上州の豪族長野氏の築いた砦である。この長野郷は長野氏の発祥の地で古くから勢力を持ち、箕輪城周辺に多くの砦を築いて、武士団を統率していたと考えられる。その数なんと23もの環濠遺跡群が確認されており、北新波砦もその一つである。その歴史は定かではないが、武田信玄の西上州侵攻における箕輪城落城の際に殉死した新波新左衛門が、砦の将とも伝えられている。
北新波砦は、平地に築かれた小さな砦であるが、ほぼ方形に土塁と空堀を廻らした遺構が良好に残っている。南側には出枡形状の突出部があり、突出部のすぐ横にある南に開いた大手虎口を防御していたものと考えられる。大手虎口は土橋で郭外に通じていたようである。また南東に隣接する満勝寺にも土塁と堀跡が残り、複郭の砦であったようだ。小さいながらもこうした遺構が公園化されて良く保存されていることは、非常に喜ばしいことだと思う。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.365440/138.970538/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
北新波砦は、西上州の豪族長野氏の築いた砦である。この長野郷は長野氏の発祥の地で古くから勢力を持ち、箕輪城周辺に多くの砦を築いて、武士団を統率していたと考えられる。その数なんと23もの環濠遺跡群が確認されており、北新波砦もその一つである。その歴史は定かではないが、武田信玄の西上州侵攻における箕輪城落城の際に殉死した新波新左衛門が、砦の将とも伝えられている。
北新波砦は、平地に築かれた小さな砦であるが、ほぼ方形に土塁と空堀を廻らした遺構が良好に残っている。南側には出枡形状の突出部があり、突出部のすぐ横にある南に開いた大手虎口を防御していたものと考えられる。大手虎口は土橋で郭外に通じていたようである。また南東に隣接する満勝寺にも土塁と堀跡が残り、複郭の砦であったようだ。小さいながらもこうした遺構が公園化されて良く保存されていることは、非常に喜ばしいことだと思う。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.365440/138.970538/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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