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粟野城(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSC06871.JPG←山頂物見曲輪北尾根の堀切
 粟野城は、佐野氏が築いたとされる山城である。南北朝期の1338年、佐野氏の家臣平野将監範久が築城し、粟野・粕尾・南摩を領した。戦国後期の1575年になると、皆川城主皆川広照は斎藤秀隆に粟野城を攻め落とさせ、秀隆を城主とした。秀隆に追われた平野久国は佐野に逃れた。1584年に小田原の北条氏直勢が北関東に侵攻し、太平山に陣を取ると、広照はこれに対応して皆川城を出て草倉山に布陣し、北条勢と対峙した。この時、斎藤秀隆も粟野城を出て参陣していたので、平野久国は手薄になった粟野城を奪還して神山氏や横尾氏を城代とした。しかし、1588年、皆川広照は再度粟野城を激戦の上奪還し、落合徳雲入道を城代とした。1590年の小田原の役の際には、北条氏に降って盟約関係にあった広照は、姻族関係の鹿沼城主壬生義雄と共に北条氏に属して小田原城に籠もった。この間に粟野城は、豊臣秀吉が派遣した上杉・真田両軍に攻め落とされ廃城となったと言う。

 粟野城は、粟野市街の西に聳える比高127mの城山に築かれた山城である。城域の一部は城山公園となっているが、城域のほとんどは藪に埋もれている。鹿沼周辺の豪快な山城とはかなり趣が異なり、多くの小曲輪を尾根や谷間に展開させただけの比較的簡素な構造である。堀切は数ヶ所に見られるが、いずれも規模は小さい。一部の曲輪は、岩肌むき出しの自然地形のままで物見となっていたことが想像されるものもあり、普請がそれほど大掛かりに行われなかったことを表している。本丸とされる曲輪は城の中腹にあり、最も広い曲輪になっている。ただ藪がひどいので、その規模を明確に確認することは難しい。標高257mの山頂には、物見とされる曲輪が置かれ、その東に何段もの段曲輪が連なっている。
 物見曲輪の西側にも曲輪が設けられ、更にその北側尾根に堀切と段曲輪があり、西尾根にも段曲輪が築かれ、山頂部の曲輪群を形成している。物見曲輪には、戦時中の防空監視哨があるが、あまり遺構の改変はされていないようである。ただ主郭付近に見られる石積みは監視哨に関わることも考えられ、遺構とは俄かに判断しがたい。

 一つ一つの遺構は小規模ではあるが、山全体に広範囲に遺構が残る山城である。結構細かく標柱が設置されているのは感心である。
山頂の西曲輪と物見曲輪→DSC06875.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.518095/139.665713/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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