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館岸城(茨城県笠間市) [古城めぐり(茨城)]

DSC01066.JPG←主郭背後の二重堀切
 館岸城は、南北朝期の難台山合戦の際に築かれたと考えられている山城である。元々この地域は「小鶴の荘」と呼ばれ、鎌倉時代初期に小田氏の祖八田知家の4男宍戸家政の所領となって以来宍戸氏一族の支配した土地であった。1380年、下野の名族小山義政は南朝方に付いて、かねて対立していた宇都宮基綱を裳原合戦で敗死させ、これがきっかけとなって鎌倉公方足利氏満による小山氏討伐が始まった。義政は、反旗を翻す事3回に及び、最後は粕尾城に籠ったが、鎌倉公方方に攻め落とされて、粕尾城から逃れて近くの山中で自刃した。しかしその遺児若犬丸は包囲網をかいくぐって逃れ、行方をくらました後、1386年から再び反旗を翻した。翌87年には小山若犬丸を支援する小田城主小田孝朝の子五郎藤綱と共に難台山城に立て籠って抗戦を続けた。この際、上杉朝宗率いる幕府方が築いたのが館岸城とされる。幕府方として討伐軍に加わった上州北白旗一揆の高麗清義の軍忠状にある「朝日山御陣」が、館岸城のことと推測されている。8ヶ月に及ぶ攻城戦の末に糧道を絶たれて難台山城は落城し、小山五郎は討死、若犬丸は再び囲みを破って逃れ、1397年に奥州で挙兵したが敗れて自刃したと言う。尚、現地解説板に拠れば、戦国末期に有力大名が短期間に築城したのではないかとの説もあるようである。

 館岸城は、標高256m、比高206mの館岸山の山腹を主体に築かれた山城である。極めて特異な、独特の縄張りを持った城で、山腹の外周を土塁で囲み、周囲には腰曲輪と横堀を設けて防御を固め、外周を取巻く土塁の内側は大きな高低差で曲輪群を両翼に連ねている。全体としては片擂鉢状になっており、最下段には虎口と水の手曲輪が構えられ、今でも水場池が残っている。そして最上段が主郭と思われる。内部が2段ほどに分かれたかなり広い面積の曲輪で、兵の駐屯を目的とした陣城という構えと考えられる。主郭の背後には大きな土塁を築き、更にその後ろに二重堀切を構築して背後の防御を固めている。この堀切には畝が付いており、明らかに戦国期の改修と考えられる。また石垣跡らしい石積みも散見される。更にここから館岸山山頂まで北東に伸びる尾根上に詰2郭があり、山頂に詰1郭がある。堀切を伴っているが削平は甘く、狭小な曲輪で自然地形に近い。この他に南東方面へ降る方向にも曲輪が連ねられているようだが、冬でも薮がひどく確認は困難である。なかなか面白い縄張りの山城である。
広大な主郭→DSC00999.JPG
DSC00972.JPG←水の手の水場池

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/?ll=36.313517,140.249802&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:中世山城
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