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修善寺城(静岡県伊豆市) [古城めぐり(静岡)]

DSC09667.JPG←主郭南側下方の石塁
 修善寺城は、南北朝時代に畠山国清が築いた畠山三城の一つである。その経緯は金山城の項に記載する。修善寺城の名は太平記での記載によるが、軍忠状や感状では立野城と記載されており、本来の名は立野城が正しい様である。鎌倉公方足利基氏(尊氏の次男)に反旗を翻したものの、大軍に包囲されて次第に追い詰められていった国清は、遂には三津城・金山城を焼き払って放棄し、修善寺城に籠城したが、結局敗れて基氏に降服したと言われている。その後の城の歴史は定かではないが、小田原北条氏によって改修された可能性がある様だ。

 修善寺城は、狩野川左岸にそびえる標高248m、比高198mの城山に築かれている。登山道が整備されているので登るのは比較的楽で、この道に沿って、多くの平場が山の中腹に築かれている。もしかしたらこれらも遺構かもしれない。山上の城中枢部は、公園化やアンテナ設備の建設等で改変が多く、どこまでが遺構なのか明確ではない。それでも山頂の主郭部には石組みの井戸跡が残り、主郭周囲の下方には土留めの石塁が残っている。この石塁は、神社建設に伴うものとも考えられるが、日本城郭大系では遺構と認定している。また主郭南側には広い南郭があるが、ここも改変を受けているものの櫓台らしき土檀が残り、その周囲に石積み跡が散見される。ここから南に降る尾根道が大手道とされ、途中には物見台があって、現在は祠が祀られている。主郭から南側は改変が激しいが、一方で、主郭の北に伸びる尾根筋の段曲輪群は、ほぼ手付かずで遺構が完存している。小郭群が幾重にも連なっており、ざっと数えたところ全部で14段程もある段郭群である。途中には鞍部を凹地状の曲輪にしている部分もある。金山城や三津城と比べると築城がかなり本格的であり、南北朝時代の城というより、戦国時代まで存続した城と考えた方が良さそうである。
北尾根の段曲輪群→DSC09735.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.974151/138.941625/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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