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黒石城(青森県黒石市) [古城めぐり(青森)]

DSC07794.JPG←空堀状の地形
 黒石城は、当地の地頭代であった工藤氏が築いた城と考えられている。鎌倉末期に工藤右衛門尉貞行は津軽田舎郡の地頭代を務め、元弘・建武年間(1331~38年)の頃に黒石城を築いたらしい。貞行は、鎌倉末期の藤崎安東氏の内乱にも出陣した。(この安東氏の内乱は、鎌倉幕府内管領の長崎高資が、抗争する安東氏家中の双方から賄賂を受け取って、双方に都合の言い様に取り繕った為、返って乱が増幅し、この収拾に失敗したことが鎌倉幕府の権威を失墜させ、幕府滅亡の一因になったと言われている。)その後、元弘の騒乱期には、大光寺楯合戦、石川楯合戦に出陣し、南北朝期には田舎館合戦に南朝方に属して戦った。その後の城の経歴は不明で、時代が大きく下った1602年、津軽統一を果たした津軽為信は、黒石城を改修して隠居城としたと言う。尚、近世の黒石陣屋を黒石地方の人は黒石城と呼ぶことから、古くからの黒石城を「旧黒石城」とも呼んでいる。

 黒石城は、浅瀬石川北岸に築かれていた。内広市郭・外広市郭・花館郭の3郭で構成された城で、日本城郭大系では、小阿弥堰の南側に郭跡があると記載されているが、そこは一面の氾濫原で、城郭を築く適地ではない。一方、小阿弥堰の北側は比高15m程の河岸段丘となっており、その段丘端の民家のある辺りは、空堀状の窪地が見られ、民家の敷地もいかにも曲輪跡らしい形状を示している。こちらが城跡だとすると、黒石城は段丘上の城で、先端から数郭に分かれており、間を堀切で分断していた様である。また北側には、現在の県道に沿って空堀が構えられていたらしい。大系の記事と現地の状況が整合しない、謎の城である。はっきりしているのは、近くの交差点脇に城址碑が立っていることだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/40.648337/140.577461/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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