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伊勢亀山城(三重県亀山市) [古城めぐり(三重)]

DSC05371.JPG←北側空堀と二ノ丸帯曲輪
 伊勢亀山城は、豊臣秀吉の家臣岡本下野守宗憲が築いたとされる近世城郭である。この地には、元々伊勢平氏関氏の築いた亀山古城があったが、1590年の小田原の役後、新たに宗憲が亀山古城に入部したが、城地が狭く腐朽も甚だしかったため、秀吉の許しを得て、新たに東南の丘陵地に亀山城を築いたと言う。しかし発掘調査の結果からは、戦国時代末期の空堀跡が検出されており、関氏時代に既に新城の位置に城が築かれていたか、或いは出城の様なものが築かれていた可能性があるらしい。1600年の関ヶ原合戦では、宗憲は西軍に付いて没落し、その後は三宅康定が城主となった。当初は三層の天守閣があったが、三宅氏時代の1632年、幕府から丹波亀山城の天守を解体するよう命じられた堀尾忠晴が、間違えて伊勢亀山城の天守を取り壊したとされるが真偽のほどは定かではない。その後、頻繁に城主が変わり、1744年に備中松山城主石川総慶が城主となり、以後、石川氏が11代世襲して幕末まで続いた。

 伊勢亀山城は、亀山宿北側の段丘上に築かれた城で、北側と南側を10m程の断崖で守られた台地上に位置している。西出丸・本丸・二ノ丸・東三ノ丸・西ノ丸から成る広い城であったが、現在は市街化によりほとんどの遺構が湮滅している。本丸は公園となり土塁や天守代用三階櫓の櫓台跡がわずかに残る程度で、あまり遺構は残っていない。二ノ丸は小学校に変貌し、その北側の帯曲輪が復元されて開放されている。ここには埋門跡や礎石・水路跡などが発掘復元されている。その他、東三ノ丸・西出丸・西ノ丸は完全に市街化で湮滅しているが、西出丸だけわずかに土塁跡と周囲の切岸が往時の姿を残している。亀山城のシンボルとも言える現存多聞櫓は、訪城時は修理中で見ることはできなかったが、荒々しい雰囲気の古風な石垣は見ることができた。(先日、不審火があったとのニュースがあった。)ただ囲いがあったりして、石垣の中にあるという墓石はよくわからなかった。全体に湮滅は進んでいる城であるが、道路などに枡形門など往時の名残を残しており、門跡などは標柱で細かく明示されている。宿場町や家老屋敷の長屋門などもよく残っている。大手門や本丸がもう少し遺構を残していれば素晴らしかったのにと惜しまれる。
多門櫓の石垣→DSC05411.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.856214/136.450399/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:近世崖端城
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