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田中城(静岡県藤枝市) [古城めぐり(静岡)]

DSC05255.JPG←二ノ丸の水堀
 田中城は、類例の少ない特異な円郭式の縄張りで有名な城である。田中城の前身は、今川氏が一色信茂に命じて築かせた「徳一色城」であった。1568年、武田信玄が三国同盟を破棄して駿河に侵攻すると、今川氏の家臣長谷川正長が徳一色城を守備して抵抗した。1570年、最後の今川方の拠点であった花沢城を攻略した信玄は、合わせて徳一色城を接収し、重臣の馬場信房に城を大改修させて田中城と改称し、山県昌景を城将とした。1575年の長篠合戦で武田氏が織田・徳川連合軍に大敗すると、徳川家康は遠江の武田領への本格的な侵攻を開始した。徳川方による田中城攻撃は1578年から始まり、城将依田信蕃は城を固く守って抗戦を続けたが、1582年、江尻城主穴山梅雪が徳川方に降ると、信蕃も田中城を開城降伏し、家康の家臣大久保忠世に城を明け渡した。その後、高力清長が城将となり、1586年に家康が居城を浜松城から駿府城に移すと、家康は田中城を度々鷹狩りの休憩所や宿泊所として利用した。1590年に、家康が江戸に移封となると、田中城には駿府城主中村一氏の家老横田村詮が入った。関ヶ原合戦後の1601年には、家康の譜代家臣酒井忠利が城主となり、忠利は田中城を拡張して近世城郭として整備した。江戸時代には城主が頻繁に交代しつつ、城は幕末まで存続した。

 田中城は、現在でも地図や航空写真を見ると、幾重にも取り巻く円形の道路があって特異な縄張りの名残を残している。国土変遷アーカイブの昭和20年代初頭の航空写真を見ると、土塁や堀、丸馬出、三日月堀などが戦後までかなり良好に残っていたことが伺われるが、高度成長期の宅地化で急速に遺構は失われ、現在ではかなり断片的な遺構しか確認できなくなってしまっている。しかしそれでも、一部ではあるが土塁や水堀がよく残っている。主郭は現在小学校になって遺構は完全に湮滅しているが、折しも運動会が開催されていて、堂々と構内に進入でき、本丸跡の標柱や石碑、城の模型を見ることができた。二ノ丸と三ノ丸の外堀の一部は、現在でも水を湛えた姿を残しており、湮滅している部分でも低地の畑などになっていて堀であったことが明瞭である。また曲輪外周の土塁も一部に残存しており、特に家老屋敷跡は私有地が市に寄贈されて一般に開放されている。場内のあちこちに標柱が多数建っており、木戸や虎口、三日月堀などの位置がわかりやすく親切である。外郭の外に当たる下屋敷には櫓が建っているが、これは本丸櫓の移築で現存遺構だそうである。ボランティアの方の話では、太平の世の月見櫓だったとのことである。たまたま台風直撃直前の駆け足の訪城となってしまったが、幸いギリギリで天気がもってくれて、城内一通りの遺構を全て確認することができた。
三ノ丸の土塁と堀跡→DSC05297.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.872148/138.274559/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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らんまる

昨年10月に念願叶って訪問した時に、ここのボランティアの方には大変お世話になり、依田信蕃公のファンですって申し出たら、田中城保存会の方から後日資料とお礼のお手紙まで頂きました。

往時の城の欠片を断片的に集めると田中城の全容が見えたような気がしました。
地域の方に愛されている城跡を見るとホッとして嬉しく思います。
by らんまる (2013-03-19 20:22) 

アテンザ23Z

>らんまるさん
私が行ったのは9月の末でした。
ニアミスでしたね(笑)。
戦後間もなくの状態のまま遺構が残っていたら、
さぞ素晴らしかっただろうと思いますが、
地元の方の愛着が伝わってくる感じは、
それはそれでまた素晴らしいですね。
by アテンザ23Z (2013-03-21 01:24) 

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