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差首鍋楯(山形県真室川町) [古城めぐり(山形)]

DSC06947.JPG←枡形虎口
 差首鍋楯は、出羽の戦国大名最上氏の家臣沓沢氏の居城である。沓沢氏の祖沓沢但馬守忠久は、近江沓沢庄から山形城主最上氏を頼って来て、この地を賜ったと伝えられている。その後、沓沢掃部介忠国は、最上義光の攻撃で攻め滅ぼされた。その後、嫡子兵庫介忠家がその跡を継ごうとしたが、幼少のため、代わりに家老であった野崎館の沓沢玄蕃が楯主となった。一方忠家は、最上氏が江戸時代に改易となると、武門を捨てて庄内に移ったと言う。

 差首鍋楯は、鮭川とその支流西川の合流点西側に突き出した比高90m程の急峻な断崖上に築かれた、三方を断崖で守られた天険の要害である。登り口は西側の国道344号線沿いにあり、登山道が整備されているので、簡単に訪城することができる。最上部に主郭を置き、その南側に数段の腰曲輪群を構え、西側には緩斜面となった広いニノ郭を配置している。ニノ郭の西端には低い土塁に虎口が2ヶ所築かれている。ニノ郭から主郭への登り口には、この城の白眉と言える重厚な二重枡形が備えられている。大きな二重の枡形虎口で、最上地区の枡形虎口と言えば、近世城郭として改修された延沢城のものがすぐ頭に浮かぶが、差首鍋楯の枡形虎口はそれより規模が大きく、しっかりとした櫓台が両側に備えられ、立派な櫓門であったことが想像される。規模から考えれば戦国期の中世城郭とは考えにくく、豊臣大名となった最上氏によって改修された近世城郭としての遺構と考えるのが妥当だろう。更に枡形虎口には、向かって上方左側に張り出した主郭塁線から横矢が架けられて防御を厳重にし、更に枡形虎口の右側には大きな三重竪堀が穿たれて、主郭方面への動線を遮断した厳重な防衛線が敷かれている。主郭には虎口が2ヶ所あり、東側の搦手虎口には右からから横矢が架かっている。主郭南側の腰曲輪群も遺構が明瞭で、多数の段に分かれているのが確認できる。

 以上の様に、差首鍋楯は近世城郭として改修された痕跡を色濃く残している。差首鍋楯は、庄内から新庄方面に繋がる間道を押さえる要害であったことから、おそらくは関ヶ原前夜の軍事的緊張状態の中で、最上氏が庄内領の上杉軍の侵攻に備えて改修した城と推測される。
枡形虎口横の三重竪堀→DSC06965.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.932707/140.193518/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0


※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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