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野崎楯(山形県真室川町) [古城めぐり(山形)]

IMG_4785.JPG←主郭北端の堀切
 野崎楯は、この地の土豪佐藤氏の居城と伝えられる。佐藤次郎勝信の子孫がこの地に移住して大沢村一帯を支配したが、佐藤大和守信基の時に、鮭延城主鮭延越前守秀綱を助けたことから、その家臣になったと言われている。1581年の山形城主最上義光による鮭延城攻撃の際には、弟下野守信包・嫡子右京信稚・2男美濃信秀・3男備中義次・家老沓沢(玄蕃?)・差首鍋楯主鳥海十郎信道らと共に応戦したが、力尽きて館に火を放って自刃したと伝えられる。その後、最上氏に臣従した秀綱が鮭延城に復帰すると、信基の子である信秀と義次は秀綱の家臣となり、再び大沢の地を支配した。1622年に最上氏が改易になると、帰農したと言う。

 野崎楯は、鮭川と小又川に挟まれた比高30m程の台地南端部に築かれている。三角形、もしくはイチョウの葉形をした広大な主郭を台地上に置き、その周囲に帯曲輪を廻らした縄張りとなっている。主郭の東側に1段の帯曲輪が延々と築かれ、南東辺ではその下に横堀が穿たれている。主郭は東側に突出しており(イチョウの葉形の根元の部分)、下方の帯曲輪に対して張り出した櫓台となっている。この部分の帯曲輪には、東尾根に降っていく城道があり、横堀が堀切を兼ねて穿たれ、その先の尾根には物見台がある。また主郭の南端には3段ほどの段曲輪が築かれ、その内2つには神社・祠が建っている。主郭内の北部にも神社が建っている。主郭の北端には堀切が穿たれ、その先には小郭が置かれている。その先の尾根は長泉寺の墓地に改変されているので、遺構は明確ではないが、墓地の北側に切通しの小道があり、これも堀切の跡ではないかと推測される。この他、主郭の西斜面にも帯曲輪があるようだが、草木が多くてあまり明確にはわからない。
 遺構は以上で、主郭が広い城であるが、縄張りとしては比較的単純である。城へ登るのは、南端の神社からがわかりやすい。以前は神社の近くに楯跡の標柱があったらしいが、現在はなくなっている。
南東山腹の横堀→IMG_4756.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.888594/140.218538/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


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