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滝堺城(静岡県牧之原市) [古城めぐり(静岡)]

DSC03514.JPG←三ノ郭の二重堀切跡
 滝堺城は、1571年に遠江に進出した武田信玄が、重臣の馬場美濃守信房に命じて築いた城である。1571年2月、遠江に侵攻した信玄は、まず小山城を築き、更に海岸沿いを南下して滝堺城を築いた。近くには元々勝間田氏が出城として築いた滝堺古城があったが、城地があまりに狭小な為、その北方に新城を構築したと伝えられている。小山城・滝堺城は、いずれも遠江の要衝高天神城攻略の為の橋頭堡であった。しかし信玄存命中は高天神城を落とすことができず、信玄没後の1574年、父の遺志を継いだ武田勝頼は全力で高天神城攻略に臨み、遂に落城させた。その時、滝堺城は武田方の有力な後方基地となった。しかし翌75年の長篠合戦で大敗した勝頼は劣勢となり、徳川家康に西から徐々に蚕食されて、1581年3月には高天神城が家康に奪還された。この間、滝堺城でも幾度かの戦闘が繰り広げられた。1582年2月、織田信長は大軍で甲州征伐を開始し、それと連動して武田領に大挙侵攻した家康は、同年3月の武田氏滅亡前に滝堺城を手に入れた。家康が駿遠二州を制圧すると、滝堺城は戦略的意義を失いそのまま廃城となった。

 滝堺城は、牧之原台地の南東端の比高60mの丘陵上に築かれている。先端に主郭を置き、ニノ郭・三ノ郭・外郭を連ねた構造で、この地域の武田氏系城郭には珍しく、単純な直線連郭式の縄張りとなっている。城域は全て一面の茶畑に変貌している為、遺構は湮滅が進んでいるが、二ノ郭~三ノ郭間の堀切以外は、藪の中に深い堀切が残っており、三ノ郭には二重堀切まではっきりと残っていて、その規模からは往時の城の規模が想像できる。唯一完全湮滅している二ノ郭~三ノ郭間の堀切は、わずかに茶畑の中の段差や窪みとなって残っている。主郭の堀切には、農道が土橋状に架っており、位置関係からすると堀に対して斜めに土橋が架かっていた可能性がある。各曲輪には土塁もあったらしいが、現在は湮滅している。主郭からは駿河湾を眼下に納める眺望が素晴らしい。ただ、馬場信房の手になる城にしては、縄張りが単純で面白みには欠けるのが残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.711536/138.210703/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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