萩多和城(静岡県静岡市葵区) [古城めぐり(静岡)]
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萩多和城は、南北朝時代に駿河南朝方の最後の拠点となった徳山城の支城である。1353年、在地土豪の鴇(土岐)氏は本城の徳山城を中心として駿河山間部に立て籠もった。将軍足利尊氏の命を受けて今川範氏はこれを討伐し、援将伊達景宗は先鋒として発向し、まず出陣の翌日の2月11日、早くも萩多和城を落とし、尾根伝いに洗沢に抜け、13日には護応土城を攻め落とし、徳山城に迫ったと伝えられている。一説には萩多和城には、土岐山城守が籠っていたと言われるが確証はない。
萩多和城は、藁科川の蛇行部に西から張り出した標高290m、比高40mの城山と呼ばれる丘陵上に築かれている。周囲を高い山々に囲まれ、北・東・南の三方を藁科川が天然の堀となって分断した要害である。この城山は私有地らしく、民家の裏にあり、山中に入ることができなかったので遺構は確認できていない。静岡古城研究会の『静岡県の城跡』によれば、頂部から東に向かって雛壇状に平場が広がっている様だが、必ずしも遺構とは確認されていないらしい。城は別の場所との説もある様だ。おまけに春先だった訪城当日は、猟師が山中で害獣駆除をしており、鉄砲の音が間近に聞こえておっかなかったので、早々に撤収した。
尚、ここからかなり離れた東の山中の林道脇に、「萩多和城址」の石碑が建っているそうで、そこがもう一つの城址推定地なのかもしれないが、時間の都合で訪城はしなかった。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.094515/138.237772/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
萩多和城は、南北朝時代に駿河南朝方の最後の拠点となった徳山城の支城である。1353年、在地土豪の鴇(土岐)氏は本城の徳山城を中心として駿河山間部に立て籠もった。将軍足利尊氏の命を受けて今川範氏はこれを討伐し、援将伊達景宗は先鋒として発向し、まず出陣の翌日の2月11日、早くも萩多和城を落とし、尾根伝いに洗沢に抜け、13日には護応土城を攻め落とし、徳山城に迫ったと伝えられている。一説には萩多和城には、土岐山城守が籠っていたと言われるが確証はない。
萩多和城は、藁科川の蛇行部に西から張り出した標高290m、比高40mの城山と呼ばれる丘陵上に築かれている。周囲を高い山々に囲まれ、北・東・南の三方を藁科川が天然の堀となって分断した要害である。この城山は私有地らしく、民家の裏にあり、山中に入ることができなかったので遺構は確認できていない。静岡古城研究会の『静岡県の城跡』によれば、頂部から東に向かって雛壇状に平場が広がっている様だが、必ずしも遺構とは確認されていないらしい。城は別の場所との説もある様だ。おまけに春先だった訪城当日は、猟師が山中で害獣駆除をしており、鉄砲の音が間近に聞こえておっかなかったので、早々に撤収した。
尚、ここからかなり離れた東の山中の林道脇に、「萩多和城址」の石碑が建っているそうで、そこがもう一つの城址推定地なのかもしれないが、時間の都合で訪城はしなかった。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.094515/138.237772/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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