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宇津野楯(山形県朝日町) [古城めぐり(山形)]

DSC01908.JPG←主郭前面の腰曲輪群
 宇津野楯は、歴史不詳の山城である。最上領と伊達領の境に近く、最上川沿いの街道を押さえると共に境目の城として最上氏によって築かれたものと推測される。

 宇津野楯は、最上川南岸に連なる丘陵地の突端の一つ、標高328mの「楯の山」に築かれている。明確な道は無く、山の東麓の農道から適当な斜面に取り付いて尾根筋まで登った。城の南の尾根の先には平場状になった小ピークがあり、物見台だった可能性がある。ここから尾根を北上すると、小堀切1本の先に物見台があり、その先に三重堀切が穿たれているのに出くわす。それほど規模の大きなものではないが、本城側の切岸は3m程の高低差がある。城内に入ると、頂部の主郭周囲には腰曲輪が巡らされ、背後で2段、前面では7~8段にも及ぶ。削平はしっかりしており、切岸も明瞭である。腰曲輪群の前面には、深さ5mの大堀切が穿たれ、その先に小郭が置かれている。ここまではよくある縄張りの城であるが、この城で出色なのは畝状竪堀の存在である。畝状竪堀群は東西2群あり、東側の腰郭には4条の竪堀が穿たれており、規模は西側のものより大きく、しっかり普請されている。この竪堀からは下方の谷戸に降りることができ、谷戸も曲輪として倉庫などが置かれた様だ。もう一方の西側の畝状竪堀は合計14本、幅1m深さ50cm程でかなり埋もれてわかりにくい。しかし、西の谷戸からの敵の接近を阻止するために築かれていたと推測される。基本的には山頂の小さな主郭とその周囲に構築された幾重もの腰曲輪群で構成された、比較的小規模な山城であるが、連続堀切や畝状竪堀が効果的に配置された城である。その構造から考えれば、天正期の伊達政宗との抗争期に最上義光が国境防衛の為に築いたものと思われる。
腰曲輪群前面の大堀切→DSC01906.JPG
DSC01940.JPG←主城部背後の三重堀切
東側の畝状竪堀→DSC01933.JPG
DSC01951.JPG←西側の小さな畝状竪堀
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.268005/140.131506/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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