SSブログ

羽黒山城(茨城県桜川市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_3886.JPG←北東端の大堀切
 羽黒山城は、一説に南北朝期の1339~43年迄の間、常陸南朝方として奮闘した常陸国司春日顕国が城主であったとされる中郡城のことではないかと言われている。顕国は、南朝の柱石北畠親房の一族で、この頃常陸を拠点に南朝勢力の再建を担っていた親房の指令で、下野まで軍を進めて一時期勢威を振るったが、京から高師直(将軍足利尊氏の執事)の一族高師冬が下向して反撃を始めると、次第に逼塞を余儀なくされ、1343年の大宝両城の陥落によって、常陸南朝方は壊滅した。しかし現在残る羽黒山城の遺構は、明らかに戦国期の改修を受けており、『関八州古戦録』等に、天正年間(1573~92年)、笠間城主笠間幹綱の甥が羽黒に住して根小屋殿と呼ばれた、とあることから、戦国期には笠間氏一族の城であったと推測されている。

 羽黒山城は、標高245mの羽黒山山頂に築かれた城である。主郭に神社が鎮座するため、西麓から登山道が整備されており、迷うこと無く登ることができるが、城に近づくにつれて傾斜が非常にきつくなり、張られたロープを使わないと登り切るのが困難である。山頂の主郭から東西に伸びる尾根上に曲輪を連ねた連郭式の縄張りで、各曲輪に土塁を多用している。特に主郭・三ノ郭は土塁で囲まれた囲郭になり、四ノ郭・五ノ郭も先端部などに土塁が築かれて防御を固めている。更に三ノ郭・四ノ郭・五ノ郭には、それ程規模は大きくないものの掘切が穿たれている。また主郭へ通じる登山道は、往時から使われた登城道だったらしく、城域に入ると木戸口の土塁や、三ノ郭の土塁上に張出した櫓台が築かれて横矢を掛けているなど、防御に余念がない。この他、主郭には虎口付近に石積みも築かれている、しかしこの城で出色なのは、北東の緩斜面の先に穿たれた大堀切で、幅10m、深さ8m程もある豪快なもので、規模が他の遺構とは全く異なっている。戦国末期に孤立しつつあった笠間氏の緊張状態が垣間見られる遺構なのであろう。このように細かい部分で色々と工夫は凝らされているが、横矢掛かりも殆ど無く、比較的単純な縄張りの城である。
土塁で囲まれた主郭→IMG_3827.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.357291/140.166764/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世山城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 5

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント