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白旗城(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0750.JPG←主郭背後の掘切
 白旗城は、那須七騎の一つ大関氏の黒羽城以前の居城である。応永年間(1394~1428年)に大関増清が築いて、山田城(大関城)から移り住んだと言われている。その後、数代にわたる居城となったが、増雄の時に黒羽八幡館に移り、増次が再び白旗城を修築して居城を移すまで、白旗城は居城ではなくなっていたらしい。但し、本城と出城の関係もあり、ややはっきりしないところもある様だ。大関増次は1542年に大田原資清と争い、資清に白旗城を急襲されて攻め落とされ、増次は逃れて石井沢で自刃した。その後、山田城に居た父宗増は大田原氏と和睦し、資清の嫡男高増を跡継ぎに迎えた。高増は白旗城主となったが、1576年により堅固な城を求めて黒羽城を築いて、居城を移した。

 白旗城は、湯坂川の東岸を南北に伸びる、比高20m程の低丘陵先端部に築かれた城である。直線的に配置された曲輪を堀切で分断しており、比較的単純な縄張りとなっている。城の先端付近は薬師堂や墓地などで改変されているが、曲輪の形状をよく残しており、腰曲輪も明瞭である。薬師堂背後の高台には義経塚という塚があるらしいが、藪がひどく形状がよくわからない。この高台の裏には掘切があり、その後ろが三ノ郭となる。三ノ郭は先端部に土塁を築いた方形の曲輪で、ややはっきりしないが北西端に内枡形の虎口らしい跡が残っている。この虎口が開いているのが主郭との間の掘切である。主郭もほぼ方形の曲輪で、愛宕神社が祀られている。主郭背後には隅櫓台を備えた土塁があり、その裏にニノ郭との間の堀切が穿たれている。この掘切は、東麓まで竪堀状の城道となって降っており、その側方の腰曲輪に櫓台が築かれて、登城道を防御している。二ノ郭は白旗城で最も広い曲輪で、中央付近に浅い空堀があって南北2郭に分けられている。ニノ郭東側の塁線は大きく内側に歪んでおり、下方に湾曲した横堀があって、大きな横矢が掛かっている。ニノ郭の先端と後端には低土塁が築かれ、ニノ郭背後の掘切は相横矢が掛けられている。先端の曲輪から二ノ郭まで、腰曲輪が延々と伸びており、特に二ノ郭東側は前述の横矢掛かりや櫓台を備え、防備が最も厳重である。白旗城は、遺構はよく残っているが、全体に未整備で藪が多く、特に二ノ郭は藪が酷い。もう少し整備されていると良いのだが。
二ノ郭東側の横堀→IMG_0812.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/?ll=36.870798,140.096219&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0


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マデリン

母方の曽祖父が、昔、裕福だったらしく(江戸時代は庄屋?)、自分でお金を出して、家の近くに鉄道の駅を作り(無人駅)その名前が白旗城跡だったらしいです。私はその付近に行ったこともありませんが、白旗城という名前だけは聞いていたので、なんだか、親近感を覚えます。
by マデリン (2019-02-16 14:03) 

アテンザ23Z

>マデリンさん
城跡が私有地ということは全国に多々ありますが、自費で作った鉄道の駅に城の名前を付けたというのは聞いたことがありません。すごいですね。どこかのTV番組で取り上げてほしいぐらいのレアなネタですね。
by アテンザ23Z (2019-02-17 21:13) 

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