黒羽城(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]
←本丸東側の豪壮な堀跡
黒羽城は、那須七騎の一つ大関氏の居城である。大関氏はもともと桓武平氏大掾氏の流れとも、或いは武蔵七党丹党の流れを汲むとも言われる。白旗城を拠点に那須氏家臣団の中で勢力伸張を図っていたが、その内に同じ家臣団の中の大田原氏との権力抗争が発生した。1518年、福原氏と結託して、一旦は大田原資清を讒言によって追い落としたが、1542年に越前朝倉氏の援助を受けた資清が逆襲に転じ、大関・福原両氏を攻め破り、自分の息子達を両氏の当主に据えることに成功した。こうして大関氏は、名は代わらないものの実質的に大田原氏の一族となって以後活動するようになった。
このとき当主に座ったのが大田原資清の長男である大関高増で、なかなか優れた武将であったらしい。そしてこの高増がより堅固な城を求めて新たに築いたのがこの黒羽城である。高増は城と同時に城下町の整備にも着手し、黒羽繁栄の基礎を築いた。その後、大関氏は豊臣秀吉の小田原攻めの際、参陣を渋る主家の那須資晴を見限り大田原氏らと共に小田原に参陣、見事に近世大名として生き残ることに成功した。そして秀吉亡き後、天下を握ろうとする徳川家康が反抗する上杉景勝を攻めるため、諸大名と共に軍を率いて下野小山まで来た際に、大関資増ら那須七騎は家康に謁して二心なきを誓い、家康は対上杉用の防衛拠点として榊原康政を入れて黒羽城を大幅に整備修築させた。こうして黒羽城は那須地域における近世の大城郭になると共に、関ヶ原以後徳川幕府体制下の近世大名黒羽藩主大関氏の居城として幕末まで存続した。
さて城の遺構であるが、これが非常に素晴らしい。主要な曲輪が南北に一直線に配置された典型的な連郭式の縄張りである。二の丸、三の丸は体育館などが建ってしまっているので、往時の姿そのままというわけではないが、本丸とその周辺の遺構は素晴らしい。本丸を取り巻く土塁に、その外側を深さ15mほどもある豪壮な堀が取り巻いている。本丸南側にはこの巨大な堀を介してかなり大きな馬出しが付随している。更にその馬出しから深い堀を挟んで三の丸に至る。本丸の虎口も土塁と堀の配置が巧妙で素晴らしく、二の丸虎口にも土塁が残る。本丸東側の道を挟んだ広場は現在城址公園の駐車場になっているが、もとは黒羽城の会所があった曲輪で、この周囲にも土塁と堀が見事に残っている。三の丸の南には、出丸を兼ねたと思われる大雄寺があり、二の丸の北側にもいくつかの曲輪があったらしく、かなり広い城域だったようだ。その証拠に、二の丸から数百mも離れた所に北坂門跡の標識があったり、その西側には削平された平場と往時のものと思われる土塁と堀跡も確認できた。三の丸の南東には黒門跡の標識や、二本の大きな土塁跡も残っている。
石垣こそないが栃木県内では間違いなくTOPクラスの城跡遺構である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.869339/140.121474/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
黒羽城は、那須七騎の一つ大関氏の居城である。大関氏はもともと桓武平氏大掾氏の流れとも、或いは武蔵七党丹党の流れを汲むとも言われる。白旗城を拠点に那須氏家臣団の中で勢力伸張を図っていたが、その内に同じ家臣団の中の大田原氏との権力抗争が発生した。1518年、福原氏と結託して、一旦は大田原資清を讒言によって追い落としたが、1542年に越前朝倉氏の援助を受けた資清が逆襲に転じ、大関・福原両氏を攻め破り、自分の息子達を両氏の当主に据えることに成功した。こうして大関氏は、名は代わらないものの実質的に大田原氏の一族となって以後活動するようになった。
このとき当主に座ったのが大田原資清の長男である大関高増で、なかなか優れた武将であったらしい。そしてこの高増がより堅固な城を求めて新たに築いたのがこの黒羽城である。高増は城と同時に城下町の整備にも着手し、黒羽繁栄の基礎を築いた。その後、大関氏は豊臣秀吉の小田原攻めの際、参陣を渋る主家の那須資晴を見限り大田原氏らと共に小田原に参陣、見事に近世大名として生き残ることに成功した。そして秀吉亡き後、天下を握ろうとする徳川家康が反抗する上杉景勝を攻めるため、諸大名と共に軍を率いて下野小山まで来た際に、大関資増ら那須七騎は家康に謁して二心なきを誓い、家康は対上杉用の防衛拠点として榊原康政を入れて黒羽城を大幅に整備修築させた。こうして黒羽城は那須地域における近世の大城郭になると共に、関ヶ原以後徳川幕府体制下の近世大名黒羽藩主大関氏の居城として幕末まで存続した。
さて城の遺構であるが、これが非常に素晴らしい。主要な曲輪が南北に一直線に配置された典型的な連郭式の縄張りである。二の丸、三の丸は体育館などが建ってしまっているので、往時の姿そのままというわけではないが、本丸とその周辺の遺構は素晴らしい。本丸を取り巻く土塁に、その外側を深さ15mほどもある豪壮な堀が取り巻いている。本丸南側にはこの巨大な堀を介してかなり大きな馬出しが付随している。更にその馬出しから深い堀を挟んで三の丸に至る。本丸の虎口も土塁と堀の配置が巧妙で素晴らしく、二の丸虎口にも土塁が残る。本丸東側の道を挟んだ広場は現在城址公園の駐車場になっているが、もとは黒羽城の会所があった曲輪で、この周囲にも土塁と堀が見事に残っている。三の丸の南には、出丸を兼ねたと思われる大雄寺があり、二の丸の北側にもいくつかの曲輪があったらしく、かなり広い城域だったようだ。その証拠に、二の丸から数百mも離れた所に北坂門跡の標識があったり、その西側には削平された平場と往時のものと思われる土塁と堀跡も確認できた。三の丸の南東には黒門跡の標識や、二本の大きな土塁跡も残っている。
石垣こそないが栃木県内では間違いなくTOPクラスの城跡遺構である。
本丸、公園化されている→
←本丸北東の搦め手枡形虎口馬出しと三の丸の間の堀跡→
←会所跡南側の堀と土塁黒門跡の枡形土塁→
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.869339/140.121474/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
高館城を検索しましたら貴兄のブログに着きました。私も北関東を中心に山城めぐりをしています、今後よろしくお願いします。
さて高館城で新たに遺構を見つけましたので(おそらく?)参考にしてください。林道を登り駐車場(神社がない駐車場)から林道を50mほど東にもどると地蔵があります。この先の尾根を登りますと大きな曲輪が構築されています。城祉の場所は栃木県黒羽町(現大田原市)の県道179号線高館トンネルの南100mくらいに林道へ入る道があります。
by 富岡武蔵 (2009-04-21 12:11)
>富岡武蔵さん
当ブログへのご訪問ありがとうございます。
武蔵さんのブログもちょくちょく参考にさせていただいておりました。
高館城にはそんな遺構もあったんですね。竪堀まであるとなれば間違いないですね。貴重な情報、大変参考になります。これを機にぜひ色々な情報を交換させていただければと思います。
よろしくお願いします。
by アテンザ23Z (2009-04-22 23:47)