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赤松楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3909.JPG←主郭の北東隅櫓台
 赤松楯(赤松館)は、嶋躰館とも呼ばれ、『安永風土記』によれば楯主は初め奥州藤原氏の家臣佐藤継信(源義経の家臣として有名)で、後の室町時代には真坂楯主狩野氏の一族、狩野式部少輔(或いは狩野弥三郎)が楯主になったと伝えられている。また赤松楯東麓には吉祥寺があるが、その西側に数段の整地面があり、同じく風土記によれば佐藤継信在城の時に、吉祥寺・中世寺・光隆寺という3つの寺院が造営されていたと言う(赤松館関連寺院跡)。佐藤継信は伝説としても、3つの寺を造営するほどの勢力を有した土豪の拠った城であったのだろう。これらを記した城址標柱が吉祥寺門前に建っている。

 赤松楯は、一迫川北岸の標高125m、比高65mの丘陵上に築かれている。特に明確な道はないが南麓の熊野神社の裏から尾根沿いに登ることができる。この尾根沿いに腰曲輪状の平場が上まで伸びており、これが大手道らしい。この大手道の左側沿いに竪土塁が延々と築かれている。この竪土塁は大手道を登ってくる敵を迎撃する役目を持っており、所々に小郭があって物見台となっている。竪土塁は主郭前面の腰曲輪に繋がっている。城の主要部は3つの曲輪で構成されており、南から順に主郭・ニノ郭・三ノ郭となっていたと考えられる。主郭は横長の方形に近い曲輪であるが、四隅が外側に張り出して横矢掛かりを意識した形状であり、防御も最も厳重で、前述の前面腰曲輪の他に南東側にも土塁を備えた腰曲輪を築いている。大手道はこの南東腰曲輪の下を通っている。主郭周囲はしっかりとした切岸で囲まれ、北東には大きな隅櫓台が築かれている。この隅櫓台近くに虎口が開かれている。主郭背後は箱堀状の幅広の堀切となっており、実質的に腰曲輪を兼ねていたらしい。この堀切の南東端は竪堀状の虎口となっていて、前述の大手道はここに繋がっている。堀切の北にニノ郭があり、横長の長方形の曲輪となっている。北東辺に土塁が築かれ、主郭同様にこの面に虎口が築かれている。ニノ郭背後も堀切が穿たれ、三ノ郭に至る。三ノ郭は不思議な構造で、山形の湯田川館群(藤沢楯石堂山楯)の様な櫛歯状空堀が平場の両側に穿たれている。しかしここの櫛歯状空堀はどうも材木伐採によるものらしく思われる。三ノ郭背後にも土塁と浅い堀切があって城域が終わっている。赤松楯は中々の規模を持った城で、土豪勢力の主城として機能したことが伺われる。
ニノ郭の堀切と虎口→IMG_3919.JPG
IMG_3924.JPG←三ノ郭内の謎の櫛歯状空堀
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/?ll=38.767285,140.913262&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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