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真坂楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3651.JPG←主郭西側の堀切
 真坂楯(真坂館)は、大崎氏の家臣狩野氏(一迫氏)の居城と言われている。狩野氏は、伊豆の豪族で狩野城主であった狩野氏の一族で、源頼朝の奥州合戦の際に狩野茂光の子行光が軍功を挙げ、頼朝から恩賞として一迫川流域一帯を給わったことに始まる。狩野詮真の時に奥州管領となった斯波家兼(大崎氏の祖)に服属し、栗原郡一迫三分の一を領して真坂楯に住したと言う。以後、狩野氏は一迫草木沢箕ノ口楯清水館嶋躰楯(赤松楯)刈敷館などに一族を配し、一迫川流域を支配する大豪族に成長した。戦国初期には狩野兼真は大崎教兼の3男刑部少輔を養子に迎え、刑部少輔は真坂楯を居城として一迫氏を称したと言う。戦国末期の真坂楯の楯主として狩野伊豆隆真の名が伝わっている。豊臣秀吉の奥州仕置で大崎氏が没落し、1591年に伊達領となると、伊達氏譜代の重臣冨塚宗綱が真坂楯主となった。以後、1717年に冨塚重標が領地を没収されるまで、約130年に渡って冨塚氏歴代の居城となった。冨塚氏の後、1718年に仙台伊達家の重臣白河宗広が真坂楯主となった。宗広は、奥州の白河結城氏の後裔で、その母が伊達騒動の際に幼君亀千代(後の綱村)を守りぬいた功で、「御一門」格に列せられ数々の恩遇を受けた。以後白河氏が歴代の楯主となって幕末まで存続した。

 真坂楯は、一迫川北岸にそびえる龍雲寺背後の標高98mの山上に築かれている。真坂楯の東方900mの位置には、巨大山城 姫松楯が存在する。真坂楯は、簡素な構造の素朴な縄張りで、山頂に主郭を置き、その東斜面や北斜面に腰曲輪を数段配置している。東斜面の腰曲輪は墓地となっているので、後世の改変の可能性があるが、北斜面のものは主郭裏の二段の馬蹄段など、往時の遺構であることが明瞭である。その北西にも腰曲輪が広がり、虎口遺構も確認できる。龍雲寺からの登道が大手と思われるので、こちらは搦手であろう。この他、主郭から堀切を挟んで西側にも平場が広がっているが、一面の薮で確認は困難である。主郭に白河宗広の母(政岡)の墓があるので登るのは容易であるが、腰曲輪など周囲の遺構は藪に埋もれている。真坂楯は、その伝承からすれば一迫の大豪族狩野氏の本拠であるが、真坂楯自体は比較的簡素な城砦で、その勢威とはやや不釣り合いに思われる。一方で隣には巨大城郭の姫松楯があるので、戦国期には姫松楯を新たに築いて居城を移していた可能性も考えられないだろうか?なかなか謎が多い。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/?ll=38.749699,140.951715&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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