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木崎城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0175.JPG←大空堀に張り出した櫓台
 木崎城は、常陸武田氏の居城である。常陸武田氏は甲斐武田氏の一族で、上杉禅秀の乱の際に禅秀方に付いて敗北し、その一族の武田信久が甲斐から逃れて常陸南部に移り、隠れ住んだことに始まる。当初は神明城を居城としていたが、1533年、武田氏8代民部大輔通信の時、新たにより要害性の高い木崎城を築いて居城を移したと言われている。戦国後期には鹿島氏、大掾氏などと抗争を繰り広げ、野友城を築くなど勢力を伸ばしたが、1591年に佐竹氏の手によって滅亡した。即ち、1590年の小田原の役後、佐竹氏は豊臣秀吉から常陸一国を安堵され、それを背景に常陸南部の計略に取り掛かった。水戸城の江戸氏、府中城の大掾氏を相次いで攻め滅ぼし、翌91年には鹿行地域の大掾氏諸族らを陰惨な謀略によって制圧した。即ち、佐竹義宣は、鹿島・玉造・行方・手賀・島崎・烟田等の鹿行地域各氏(所謂「南方三十三館」)に対し、新しい知行割をするという名目で居城の常陸太田城に招き、参集した武田信房ら16名は酒宴の中、一挙に惨殺されたと言う。直ちに佐竹氏は軍勢を鹿行地域に進撃させ、城主不在となった南方三十三館を悉く攻め落とした(南方三十三館の仕置)。木崎城で戦闘があったかどうかは不明であるが、いずれにしても城主なき城では佐竹氏の圧倒的な軍事力に対抗できるはずもなく、程なく制圧されたのだろう。以後、廃城となったと思われる。

木崎城は、神明城より武田川の1.7km程下流にある城で、神明城同様、北に向かって張り出した台地上に築かれている。しかし微高地程度の神明城より要害性の高い、比高20m程の独立丘陵の上に位置している。縄張りは、丘陵北端部に主郭・二ノ郭を東西に併置し、空堀を挟んで南に広大な三ノ郭、更に大空堀を穿った南に小規模なⅣ郭・Ⅴ郭等の外郭を備えている。主郭はほぼ方形の曲輪で、3つの隅櫓台を有している。また外周に横堀を巡らして防御を固め、南辺だけ土塁を築いている。主郭内には現在香取神社が建っている。二ノ郭もやや縦長の方形の曲輪で、北西側にだけ土塁が築かれ、主郭との間は浅い空堀、また北斜面には主郭北側から続く横堀が防御を固めている。二ノ郭東には広い腰曲輪が築かれ、その北端には櫓台を形篇したと思われる墓地がある。三ノ郭は畑などに変貌し、工場も建っている。三ノ郭の南側は土塁が築かれ、幅10m以上もある大空堀で断絶されている。ここにはⅣ郭に向かって土橋が架かり、両翼に横矢張り出しの櫓台が築かれている。この空堀付近は綺麗に整備されていて、櫓台の横矢掛かりがはっきりと確認できる。千葉の坂田城にもこうした櫓台があったが、薮が多くて見栄えが悪かったので、坂田城もこのぐらい綺麗に整備してくれればと思った。大空堀は、東西の端まで掘り切っており、東側は三ノ郭東の腰曲輪に繋がっている。大空堀の外にはⅣ郭・Ⅴ郭が東西に並び、Ⅳ郭は逆三角形で低土塁に囲まれた馬出し的曲輪、Ⅴ郭は南の防衛線となる東西に細長い砦的な曲輪となっている。Ⅳ郭・Ⅴ郭の周りにも横堀や腰曲輪が築かれている。傾斜の緩い南面への防衛を重視していたことが見て取れ、戦国後期の築城技術を見ることのできる良好な遺構である。
主郭外周の横堀→IMG_0106.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.098007/140.508399/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
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