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札城(茨城県鉾田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0290.JPG←主郭周囲の空堀
 札城は、大掾氏の庶流で馬場氏の一族、札氏の居城である。馬場繁幹がこの地を領して札城を築き、その子幹高より札氏を称したとされる。その後の事績はあまり明確ではないが、最後の城主は札治部大輔幹繁で札・阿玉を領していた。1591年、佐竹義宣による所謂「南方三十三館の仕置」で、鹿行地域の諸豪が陰惨な謀略によって常陸太田城で誘殺された際、幹繁は危うく難を逃れ、小里村(久慈郡里美村)に逃れて蟄居し、15年後に郷里へ帰ったが病死し、札氏は滅亡した。

 札城は、北浦東側の比高15m程の丘陵上に築かれている。基本的には連郭式の縄張りで、北から順に北出曲輪(笹曲輪)、主郭、二ノ郭、三ノ郭と連なっている。北出曲輪は、左右に竪堀状虎口を築いていることから、実質的に主郭の馬出しとして機能したらしい。特に西側の竪堀状虎口には枡形も構築されている。主郭は山上の方形郭で、全面が薮だらけで進入できないが、北辺と南東角部に土塁が確認できる。主郭の西側以外の三方は空堀で囲まれ、北と南のものは各曲輪を分断する堀切を兼ねている。空堀の外側には帯曲輪が構築されて斜面からの敵の接近を防衛している。また南東部には2本の竪堀が落ちている。二ノ郭は大きな切岸で2段の平場に分かれており、下段は「エトク屋敷」と呼ばれているらしい。ここには民家がある。上段は不定形な櫓台を兼ねたと思われる高台になっている。二ノ郭~三ノ郭間も堀切で分断され、現在は小道が通っている。三ノ郭は普門寺境内となり、墓地が造成されているので改変を受けているが、ある程度旧状を残しており、北に向かって段々に高くなっており、北辺に土塁が見られる。南にも大きな土壇があり、往時の櫓台の跡のように見受けられる。札城は、明確に遺構が残っているが、解説板もなく未整備で、少々残念である。また全体に、割と平易な縄張りである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.085714/140.547388/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
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