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麻生城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0729.JPG←西側台地基部の横堀・竪堀
 麻生城は、大掾氏の庶流で行方氏の一族、麻生氏の居城である。大掾繁幹の子吉田清幹の次男忠幹が行方の地に入って居城を築き、行方平四郎を称したのが行方氏の始まりである。その子宗幹は、嫡男為幹と共に源氏に味方して屋島の戦いに従軍し、討死した。1184年、宗幹の所領はその四子に分与され、3男家幹は麻生に分封されて麻生氏を称した。尚、宗幹の長男為幹は行方氏の惣領を継ぎ、後に小高へ移住して小高氏となり、次男高幹は島崎に分封されて島崎氏となり、4男幹政は玉造に分封されて玉造氏となった。この四家は、行方地方に勢力を持った行方氏一族の中心的地位を占め、「行方四頭」と称された。四頭は、小高氏を惣領とし、島崎・麻生・玉造の三氏が惣領を支援する形で結合していたが、戦国期に入ると同族間で抗争し、島崎氏が頻りに外征を行って勢力を拡大し、小高氏を凌ぐ勢力になった。1584年、麻生氏17代之幹(常安)の時、島崎義幹に麻生城を攻略され、麻生氏は滅亡した。その後7年にわたって島崎氏が麻生城を支配したが、1591年、佐竹義宣による所謂「南方三十三館」によって、義幹は他の鹿行諸族15名と共に常陸太田城で謀殺され、滅亡した。その後、佐竹氏の家臣下河辺氏が入城したが、1602年に佐竹氏が出羽秋田へ移封となるとこの地を離れ、麻生城は廃城となった。1604年、摂津高槻から新庄直頼が3万300石でこの地に入封し、麻生城の東400mの平地に麻生陣屋を築いた。

 麻生城は、霞ヶ浦東岸の比高20m程の丘陵上に築かれた城である。広い平坦面を持った丘陵全体を城域としており、現在は羽黒山公園となっている。その為主郭とされる平場全体に公園化による改変が見られ、どこまで往時の遺構が残っているのかわかりにくいが、主郭の周囲には腰曲輪が廻らされていた様である。この城の見所は西側の台地基部で、ここには土塁や横堀・竪堀を縦横に絡めた複雑な防御構造が見られる。主要部が規模は大きいものの簡素な構造である反面、西側部分のみ技巧を凝らした一点豪華主義の縄張りで、何とも理解が難しい城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.989796/140.480375/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
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