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小高城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0516.JPG←主郭南の横矢掛かりの堀切
 小高城は、大掾氏の庶流で行方氏の惣領、小高氏の居城である。大掾繁幹の子吉田清幹の次男忠幹が行方の地に入って居城を築き、行方平四郎を称したのが行方氏の始まりである。その子宗幹は、嫡男為幹と共に源氏に味方して屋島の戦いに従軍し、討死した。1184年、宗幹の所領はその四子に分与され、長子為幹は行方氏の惣領を継ぎ、後に行方城から小高の地に居城を移し小高氏を称した。尚、宗幹の次男高幹は島崎に分封されて島崎氏となり、3男家幹は麻生に分封されて麻生氏となり、4男幹政は玉造に分封されて玉造氏となった。この四家は、行方地方に勢力を持った行方氏一族の中心的地位を占め、「行方四頭」と称された。四頭は、小高氏を惣領とし、島崎・麻生・玉造の三氏が惣領を支援する形で結合していたが、戦国期に入ると島崎氏が頻りに外征を行って勢力を拡大し、小高氏を凌ぐ勢力になった。一方、山入の乱・部垂の乱などの内訌を克服し、家中統一に成功した佐竹氏の勢力が常陸南部にも及ぶようになり、小高氏らの国人衆も佐竹氏に従属せざるを得なくなった。1590年の小田原の役後、佐竹氏は豊臣秀吉から常陸一国を安堵され、それを背景に常陸南部の計略に取り掛かった。水戸城の江戸氏、府中城の大掾氏を相次いで攻め滅ぼし、翌91年には鹿行地域の大掾氏諸族を陰惨な謀略によって制圧した。即ち、佐竹義宣は、鹿島・玉造・行方・手賀・島崎・烟田等の鹿行地域各氏(所謂「南方三十三館」)に対し、新しい知行割をするという名目で居城の常陸太田城に招き、参集した小高治部大輔ら16名は酒宴の中、一挙に惨殺されたと言う。直ちに佐竹氏は軍勢を鹿行地域に進撃させ、城主不在となった南方三十三館を悉く攻め落とした(南方三十三館の仕置)。小高城もこの時攻め落とされ、小高氏は滅亡した。この後、佐竹一族の北義憲(佐竹北家)が小高城主となり、1595年には大山義則が城主となったが、1602年に佐竹氏が出羽秋田に移封となると、小高城は廃城となった。

 小高城は、比高20m程の丘陵先端部に築かれた城である。連郭式を基本とした縄張りで、ここでは先端から順にニノ郭、主郭、三ノ郭、四ノ郭、五ノ郭と称する。二ノ郭はマンダイ(政台?政殿?)と呼ばれ、全周を土塁で囲んだ細長い曲輪である。また外周には腰曲輪を全周に廻らし、北側には堀切兼用の城内通路を挟んで、一段高くなった前衛小郭を置いている。また西の中間部に搦手虎口があり、その脇と腰曲輪の南西端にそれぞれ動線制約の竪堀が穿たれている。二ノ郭の南に、堀切を介して主郭がある。主郭はウチミジョウ(内御城)と呼ばれ、かなりの広さを持った曲輪で、現在畑となっている。ここも南東辺以外の三方のほぼ全周を土塁で囲み、北西辺から南西編に掛けて延々と横堀を巡らすなど、最も防備が厳重である。しかも横堀外周の土塁の西端に櫓台を設け、その下方に横堀・二重堀切を穿っている。また主郭南東側も2ヶ所に横矢の張り出しを設けている。北東の横矢掛かりは主郭に土壇を設け、下方はクランクした横堀状通路となっている。南東の横矢掛かりは、三ノ郭側も横矢の張り出しを設け、双方からクランクした堀底に横矢を掛ける技巧的縄張りとなっている。南東斜面は斜度が緩く、腰曲輪群が広がっている。主郭を介して主郭の南にあるのが三ノ郭で、ナカジョウ(中城)の地名が残り、現在は畑になっている。三ノ郭と四ノ郭の間の堀切は、現在は湮滅しているが、昭和20年代の航空写真を見ると堀のラインが確認できる。曲輪の大きさと位置関係からすると、三ノ郭は馬出し機能を持った曲輪であったらしい。更に四ノ郭・五ノ郭が続き、その間の堀も北端部を除いて湮滅している。四ノ郭の北側の山林内にも遺構があり、横堀や堀切、片堀切を介して繋がった物見台などが眠っている。小高城は、全体に曲輪の規模が大きく、技巧的な縄張りも要所に見られ、この地域の中核的城郭として機能したことが伺われる。それ故、鹿行諸族を滅ぼした後、佐竹氏は一族の重臣をこの城に入れて治めさせたのだろう。
片堀切を介して繋がった物見台→IMG_0684.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.036589/140.474389/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
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