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阿波崎城(茨城県稲敷市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9299.JPG←外丸の腰曲輪群
 阿波崎城は、南北朝時代の一時期、南朝方の柱石であった北畠親房が拠った城である。建武の新政が瓦解し、吉野で南朝を樹立した後醍醐天皇であったが、1338年に主戦力であった新田義貞、北畠顕家(親房の嫡男)を戦場で失い、勢力再建が急務となった。そこで閏7月に自らの皇子である義良親王・宗良親王・懐良親王を伊勢を経由して、それぞれ奥州・遠州・九州の各地の南朝勢力の元に派遣し、勢力挽回を企図した。この内、義良には親房とその次男顕信を付けて海路奥州に下したが、9月に途中の遠州灘で暴風に遭い、兵船は四散、義良は伊勢に吹き戻されて、翌年吉野に戻って皇太子となった(後の後村上天皇)。一方、親房は常陸に漂着し、南朝方の地頭東条氏に迎えられて神宮寺城に入り、ここを東国経営の拠点として活動を開始した。しかし間もなく、北朝方の武家である佐竹義篤(常陸守護)・大掾高幹・烟田時幹・鹿島幹寛・宮崎幹顕らの軍勢に攻められ、10月5日あえなく神宮寺城は落城した。逐われた親房が阿波崎城に逃れると、残存する南朝方の勢力が参集して北朝方と戦ったが、阿波崎城も程なく落城し、親房は更に小田城関城へと転戦した。しかし1343年、鎌倉府執事の高師冬の軍勢によって関・大宝両城は陥落し、常陸の南朝方は壊滅、失意の親房は吉野に舞い戻った。その後の阿波崎城の歴史は不明であるが、戦国期の改修の痕跡が残っていたとも言われる。

 阿波崎城は、霞ヶ浦南方の比高25m程の丘陵上に築かれている。かつては丘陵を広く取り込んだ城であったとされるが、城の中心部はゴルフ場造成によって破壊されてしまっており、現在残っているのは丘陵北東端部の「外丸」「八幡台」と呼ばれる部分だけである。外丸は公園化されており、主郭ではないものの大きな曲輪となっており、北東斜面に段々になった明確な腰曲輪群を構築している。この曲輪群は、中央部が谷戸状に窪んだ地形で、その脇の城道には、原初的な桝形虎口が築かれ、側方上部に櫓台を築いている。一方、八幡台は未整備で藪化しているが、中を探索すると土塁による枡形状の遺構があり、また先端に土塁を伴った曲輪も確認できる。しかし全体的には技巧性に乏しく、古い南北朝期の形態を色濃く残していると思われる。
 『日本城郭大系』の縄張図には、主郭として凸字状に土塁で囲まれた曲輪を載せているが、昭和30年代の航空写真を見ると、そうした明確な遺構は確認できない。そもそも『大系』の縄張図は地形からしても不正確なので、あまり当てにならないと言ってよい。どうも大系の茨城編は記述が全体に不正確で困る。
 いずれにしても、短時日で落城していることから、阿波崎城はそれほど大規模な城ではなかったと推測される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.950652/140.416045/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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