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高尾城(石川県金沢市) [古城めぐり(石川)]

IMG_3158.JPG←5郭の堀切
 高尾城は、室町時代に加賀守護であった富樫氏の実質的な滅亡の地である。富樫氏の事績は富樫館の項に記載する。富樫政親は、弟幸千代との内訌の際に一向宗徒を味方に付けることで幸千代を破り、加賀一国を支配下に置いた。しかしその後、一向宗が勢いを増すと、政親は一転して一向宗を弾圧したことから、一向一揆との争いが始まり、1488年、20万もの数に膨れ上がった一向一揆勢によって、政親は高尾城に追い詰められて自害した。その後、加賀は一向宗の国となり、いわゆる「百姓の持ちたる国」となった。一向宗は名目上の守護として富樫一族の泰高を擁立したが、守護大名の実質はなく、事実上政親の滅亡をもって加賀守護家富樫氏の滅亡と見做してよい。

 高尾城は、金沢市の文化財行政を転換させた城でもある。何らの保護政策も取っていなかったところ、北陸道建設の為の土取りと石川県教育センターの建設で遺構の多くが失われ、さすがに中世加賀の重要な歴史の場である高尾城の破壊は地元史家に強い衝撃を与え、大きな抗議運動が起きた。その為、市は遅まきながら遺構の調査を行うとともに、わずかに残った遺構を見晴台とする公園に整備したのである。対応が遅きに失した感はあるが、無反省に今でも城郭遺構の破壊を続けている自治体よりは数倍マシであろう。

 高尾城は、主城部と出曲輪から成り、見晴らし台として整備されているのは出曲輪である。出曲輪は標高160m、比高100m程で、「ジョウヤマ(城山)」の地名があり、北半分は土取りで削られてしまっているので、往時の広さはわからない。背後の尾根とは切岸・堀切で明確に区画されている。この背後の尾根は一騎掛けの土橋となっている。これを奥に進むと「コジョウ(古城)」の地名が残る主郭部に至る。標高は190m。主郭の周りにはわずかな段差で北東に二ノ郭、南に三ノ郭を構え、前述の尾根からの登り口には数段の小郭を築いている。二ノ郭の北東下方には堀切が穿たれ、その先に4郭が広がり、更にその下方もより大きな堀切で分断し、5郭が置かれている。一方、二ノ郭の北斜面には帯曲輪が築かれ、その西端に二重竪堀が落ちている。三ノ郭の南の尾根には物見郭が2つ確認でき、途中には堀切状の地形があるが、鋭さがなく自然地形なのかどうか判然としない。また西に分岐する尾根には土橋が見られる。これだけを見ると、守護の城としてはかなり小さく、守護館に対する有事の詰城ということを考えるとこんなものかとも思ったが、実際は違うらしい。帰ってから調べてわかったが、実際には高尾城塞群と称されるほど城域は広大らしい。主城と思った部分の更に奥にも遺構が散在しているらしいが、求心性の乏しい城だった様で、どれほどの防御性を持っていたのかは疑問である。これらを全部踏査するにはかなりの時間を要するだろう。今回は短期決戦の弾丸山城ツアーなので、これで良しとしよう。
竪堀→IMG_3180.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.513327/136.637757/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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史学会帰り新参

高尾城は桜の名所でもあり、行ったときは幸か不幸かちょうど桜が満開でした。そのためにいつもより多くの人がいました。ほとんどの人は展望台まで行って桜を見て帰りました。奥の城跡まで行く人は皆無でした。高尾城の遺構見学で山の方に行き、出てきたとき他に人には変に思われたでしょうね。
奥の遺構はよく残っていましたが、未整備で竹林でした。
by 史学会帰り新参 (2019-10-06 23:04) 

アテンザ23Z

>史学会帰り新参さん
せっかく以前に広範な調査を行ったのですから、見晴台だけでなく、奥の城域も整備して公開してほしいですね。地主さんが反対しているのかもしれませんが。
by アテンザ23Z (2019-10-07 17:09) 

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