坪井山砦(石川県宝達志水町) [古城めぐり(石川)]
←外周の横堀
坪井山砦は、坪山砦とも呼ばれ、末森合戦の時に佐々成政が本陣を置いた陣城である。元々は七尾城を本拠とした能登畠山氏の勢力が築いた砦とされる。一説には、畠山七人衆と呼ばれる重臣層に追放されて近江に亡命していた畠山義綱が能登入国を図るのに備えて、1567年に七尾城方の温井・三宅一族が坪井山砦を築いたとも言うが、遺構を見る限りではこの所伝には少々疑問を感じる。1584年、加賀能登を領する前田利家の領国を分断するため、佐々成政は末森城攻略を図った。ここに名高い末森合戦が生起した。その詳しい経緯は末森城の項に記載する。成政は、坪井山に本陣を置いて末森城に猛攻を掛けた。しかし利家の迅速果敢な後詰め戦により、搦手を突破されて城兵との合流を許してしまった。勝機を失った成政は、敵地での長い補給線と退路の確保を考慮して、本陣を引き払い越中に撤退した。
坪井山砦は、標高約50mの低丘陵に築かれている。丘陵東麓に白山神社があり、その脇から小道が付いているが、途中で道が消えるので、とにかく西に向かって進んでいけば砦に到達する。砦は長円形をしており、東端に大手虎口を設け、外周に帯曲輪または横堀で防御している。西端にも搦手虎口があり、堀切を穿ち土橋を架けている。また北側に出曲輪があり、基部は主郭外周の横堀と兼用した堀切で分断している。一応この様な遺構は見られるが、普請は非常にささやかなもので、臨時的な陣城と言う色彩が強い。同じ陣城でも、例えば韮山城付城群等に見られるような複雑な構造は見られず、普請は極めて小規模である。それは、末森合戦が短期決戦を主眼とした奇襲攻撃であり、長期滞陣をする意図が最初からなかったからなのだろう。越中から国境を越えて出撃してきている佐々勢にすれば、長期攻囲戦になった時点で兵站の問題から撤退を余儀なくされる乾坤一擲の作戦であったことがうかがわれる。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.793804/136.759894/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
坪井山砦は、坪山砦とも呼ばれ、末森合戦の時に佐々成政が本陣を置いた陣城である。元々は七尾城を本拠とした能登畠山氏の勢力が築いた砦とされる。一説には、畠山七人衆と呼ばれる重臣層に追放されて近江に亡命していた畠山義綱が能登入国を図るのに備えて、1567年に七尾城方の温井・三宅一族が坪井山砦を築いたとも言うが、遺構を見る限りではこの所伝には少々疑問を感じる。1584年、加賀能登を領する前田利家の領国を分断するため、佐々成政は末森城攻略を図った。ここに名高い末森合戦が生起した。その詳しい経緯は末森城の項に記載する。成政は、坪井山に本陣を置いて末森城に猛攻を掛けた。しかし利家の迅速果敢な後詰め戦により、搦手を突破されて城兵との合流を許してしまった。勝機を失った成政は、敵地での長い補給線と退路の確保を考慮して、本陣を引き払い越中に撤退した。
坪井山砦は、標高約50mの低丘陵に築かれている。丘陵東麓に白山神社があり、その脇から小道が付いているが、途中で道が消えるので、とにかく西に向かって進んでいけば砦に到達する。砦は長円形をしており、東端に大手虎口を設け、外周に帯曲輪または横堀で防御している。西端にも搦手虎口があり、堀切を穿ち土橋を架けている。また北側に出曲輪があり、基部は主郭外周の横堀と兼用した堀切で分断している。一応この様な遺構は見られるが、普請は非常にささやかなもので、臨時的な陣城と言う色彩が強い。同じ陣城でも、例えば韮山城付城群等に見られるような複雑な構造は見られず、普請は極めて小規模である。それは、末森合戦が短期決戦を主眼とした奇襲攻撃であり、長期滞陣をする意図が最初からなかったからなのだろう。越中から国境を越えて出撃してきている佐々勢にすれば、長期攻囲戦になった時点で兵站の問題から撤退を余儀なくされる乾坤一擲の作戦であったことがうかがわれる。
大手虎口→
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.793804/136.759894/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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