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入沢城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN8145.JPG←堀切跡
 入沢城は、渋川城とも言い、この地の豪族入沢氏の居城である。元々は鎌倉時代に足利氏の一族渋川氏の祖、足利義顕が渋川保を領して城を築いたことに始まるとされる。渋川氏は、1335年の中先代の乱の時、渋川義季が女影原の戦いで岩松経家と共に討死している。義季の妹は足利直義の正室で、義季の娘幸子は2代将軍足利義詮の正室となるなど、足利将軍家と近い間柄で、義季の孫義行以降は九州探題に補任され、西国に活動の拠点を移した。時代は降って戦国中期の1544年3月、信州佐久の豪族入沢治部少輔時吉がこの地に移住して渋川故城の主郭跡に屋敷を築いた。1557年、入沢氏は吾妻大戸城(手子丸城)主大戸氏から軍功により渋川西部を与えられ、元亀・天正年間(1570~92年)には上州西部を支配した武田氏に仕えた。武田氏滅亡後は上州の大半を制圧した小田原北条氏に仕えたが、1590年に北条氏が滅亡すると時吉の子吉広は館を廃し、帰農したと言う。

 入沢城は、榛名山の東麓、平沢川と黒沢川の合流点に突き出た舌状台地の東端に築かれている。元屋敷という地名の東の主郭と、五輪平という地名の西の二ノ郭から構成されている。主郭・二ノ郭共に大半が耕地となっているが、間には堀切跡が浅くなっているものの明確に残っている。主郭は先端部が一段低くなっており、2段の平場で構成されている。『日本城郭大系』では二ノ郭の西側には土塁が残るとしているが、現地標柱では積石猪鹿防ぎ跡とされる。城の土塁跡をそのまま猪鹿防ぎに転用したのかも知れない。いずれにしても、居館機能を主とした城であった様だ。
 尚、入沢城・引越山の砦鐙山の砦などで構成された入沢城砦群があり、入沢城はその中心であった。『日本城郭大系』群馬編を著した山崎一氏は「地域城」という概念を導入して、この城砦群も「入沢地域城」としているが、私はこの概念には懐疑的で、城砦群や支城群と何が異なるのかさっぱりわからない。そこでここでは「入沢城砦群」と記載した。
 また入沢氏の墓が、鐙山の砦の北東麓の墓地内に残っている。
主郭下段平場からの眺望→DSCN8139.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.499857/138.982834/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世平山城
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