SSブログ

渡辺囚獄佑屋敷(山梨県富士河口湖町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN0903.JPG←囚獄佑墓周囲の石積み
(2020年7月訪城)
 渡辺囚獄佑(ひとやのすけ)屋敷は、九一色衆の一員である渡辺囚獄佑守の居館である。囚獄佑は、甲斐武田氏に仕え甲駿国境にある本栖の警固に当たった。祖父源次知(さとる)は甲斐武田氏に仕えて左京亮と称した。1521年に今川氏親の重臣福島正成が甲斐に侵攻した際、軍功があった。知の子源次縄(ただす)は豊後と称し、武田信玄の駿河侵攻の際、駿河大宮城を守った。縄の子が守で、囚獄佑を称した。1582年の織田信長の武田征伐によって武田氏が滅亡し、その3ヶ月後に信長が本能寺の変で横死すると、権力の空白地帯となった武田遺領を巡って、北条・徳川・上杉3者による争奪戦「天正壬午の乱」が生起した。この時、徳川家康は駿河江尻城を経由し、中道往還から甲斐に侵攻した。その際、渡辺囚獄佑ら九一色衆17騎は徳川氏に従属し、家康は囚獄佑を案内者として甲府の尊躰寺に入り本陣を据えた。その後家康が新府城に本陣を移すと囚獄佑も新府城まで随従した。家康は囚獄佑に本栖を固めて北条勢に備えるよう命じ、囚獄佑は本栖城に戻った。その帰路で北条軍別働隊の都留郡侵攻を告げる急使に会い、使者を伴って新府城に引き返し、家康に知らせた。家康は家臣安倍信盛に加勢を命じ、囚獄佑に本栖城の死守を命じた。北条軍別働隊が本栖城に攻め寄せると、九一色衆は奮戦し、間もなく囚獄佑らも到着し、北条勢を撃退した。家康は、その功により九一色郷に対して諸商売役免許(関銭の免除などの商売の特権)の印書を与えた。

 渡辺囚獄佑屋敷は、本栖湖東岸の丘陵地に築かれている。屋敷跡と伝承される場所付近には、溶岩軽石を積んだ石積みが多数残っている。結構起伏のある地形で、櫓台のような高台も見られ、切岸のような地形の上にも一直線に石積みが見られる。また石積みで区画された一画には五輪塔が2基祀られ、渡辺囚獄佑の墓と言われている。墓の東側上方にも、東の傾斜地と区画するように石積みがあり、虎口のような部分もある。しかし石積みは、全体に明確な縄張りを有していないので、全部が遺構ではなさそうだ。従ってどこまでが屋敷の遺構かもはっきりしない。尚、南から屋敷跡に至る小道沿いに、煙硝屋敷跡の表示があり、ここの南側にも石垣がある。
煙硝屋敷の石垣→DSCN0844.JPG


 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.465354/138.604159/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 5

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント