SSブログ

新府城(山梨県韮崎市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN4237.JPG←大手虎口の丸馬出
(2021年2月訪城)
 新府城は、甲斐武田氏最後の居城である。武田氏の居城は、信虎による甲府開府以来躑躅ヶ崎館にあったが、長篠合戦で大敗した後、迫りくる織田・徳川の脅威に対抗するため、武田勝頼の命で1581年2月に築城が開始された。この地への築城の献策は、武田親族衆の重臣穴山梅雪によると言われ、普請奉行には真田安房守昌幸が任じられた。勝頼や昌幸の書状によれば起工の日は2月15日、領国内に10軒に1人の割合で30日間の人夫を供出させる総動員体制で、昼夜兼行の突貫工事が行われた。その最中の3月22日には遠江の要衝高天神城が落城し、武田氏を取り巻く情勢は更に緊迫化した。しかも勝頼は、高天神城への後詰めを行わず見殺しにしたことで、その権威は大きく失墜した。9月にはほとんどの築城工事が完了し、勝頼はその落成を友好諸国に披露した。勝頼が新府城へ移転しようとしていた矢先、北条氏家臣で伊豆戸倉城主笠原新六郎範定(北条家筆頭家老松田憲秀の次男)が武田方に降伏してきた為、その仕置のために伊豆に出馬し、帰国後の12月24日に新府城への移転を決行した。躑躅ヶ崎館のあった古府中を去るに当たって、心残りの無い様に館や家臣屋敷を悉く打ち壊したと言う。また城下町を形成する余裕がなく、家臣団の屋敷を集住させるだけで精一杯であったが、一方で城の北方に能見城を中心とする外郭線を築き、城のある七里岩台地を分断する長城を備えていたとされる。勝頼は1582年の正月を新府城で迎えたが、正月早々に武田親族衆の木曽義昌が織田信長に通じて反逆した為、1月28日に木曽義昌追討の兵を発し、自らも2月2日に新府城を発って諏訪上原城に本陣を置いた。一方、武田領侵攻の準備を進めていた信長は、木曽氏の反乱を契機として2月3日に侵攻作戦を開始した。この時信長は朝廷を動かして、勝頼を朝敵と認定させることに成功し、武田討伐の大義名分を整えた。織田軍の侵攻が開始されたその日、更に勝頼にとって不運なことに浅間山が大噴火を起こし、人心が激しく動揺した。こうして、ただでさえ疲弊していた武田方の前線はまたたく間に崩壊し、重臣の穴山梅雪も駿河江尻城を徳川家康に明け渡して降伏した。勝頼は、上原城から急いで新府城に戻った。3月2日、実弟の仁科信盛らが守る高遠城が激戦の末に落城すると、新府城へ織田軍が迫ってくる状況となった。勝頼は評定を行い、未完成の部分があった新府城での防戦は無理と判断、真田昌幸の岩櫃城撤退策と小山田信茂の岩殿城撤退策を受けて、最終的に岩殿城へ退くことを決断、3月3日早朝に新府城に火を放って岩殿城に向かった。勝頼の新府城在城は、わずか3ヶ月余であった。結局、笹子峠に差し掛かったところで小山田氏の裏切りに遭い、進退窮まった勝頼は3月11日に日川渓谷沿いの田野で北条夫人・嫡子信勝らと共に自刃し、甲斐の名門武田氏は滅亡した。しかしわずか3ヶ月後に織田信長が本能寺で横死し、武田遺領の織田勢力は一挙に瓦解し、北条・徳川・上杉3氏による武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」が生起した。この時、若神子城に本陣を置いた北条氏直に対して、徳川家康が本陣を置いたのが新府城である。数カ月に及ぶ長期対陣となったが、黒駒合戦など各地の局地戦で勝利を挙げた徳川勢が北条の大軍を逼塞させ、また北条方にあった真田昌幸を寝返らせたことで、家康は北条勢の背後を脅かすことに成功した。しかし寡兵の徳川勢に北条の大軍を撃破する力はなく、結局徳川方の優勢下で北条氏と和睦し、乱は集結した。こうして新府城は、その短い役目を終えた。

 新府城は、七里岩台地の西縁にある比高60m程の独立丘陵に築かれている。山頂に広大な面積を持った長方形の本丸を置き、その西側に南北に並んだ方形の区画を挟んで二ノ丸がある。ちなみに南北に並んだ方形区画の内、北側のものは本丸西虎口の外枡形となっている。二の丸も長方形の曲輪で、南には馬出しとされる土塁の囲郭があり、南に食違い虎口が築かれている。本丸の南下方には仕切り土塁で東西に区画された三の丸が広がっている。しかし三の丸は薮が生い茂り、北東に虎口があるが確認は困難である。三の丸外周には腰曲輪・帯曲輪が築かれ、南東に大手虎口が築かれている。大手虎口は、前面に丸馬出と三日月堀を設け、その内側に土塁で方形の区画を築いている。この方形区画は、動線は屈曲せず、内側・外側の門跡が一直線に配置されている。この形状は、搦手の乾門跡も似た構造であり、躑躅ヶ崎館の虎口も同じ構造である。この点では、武田氏の虎口構造は近世城郭に見られる枡形虎口とは構築思想が異なっていることがわかる。一方、二の丸から搦手虎口に至る間には帯曲輪や井戸跡が残っている。丘陵最下方の北から東にかけては帯曲輪が廻らされ、特に北側では土塁が築かれ、2ヶ所に出構と呼ばれる突出部が、外周の堀跡に突き出している。出構の機能には諸説あるが、鉄砲陣地と考えるのが自然だろう。搦手には東西に細長い独立郭が設けられ、南は土橋、東は木橋で連絡している。但し、木橋は現在は無く、橋台だけが現存している。北側には堀跡が低地の畑となって残り、西側では水堀が現存している。これらの堀の上に切岸がそびえ、帯曲輪が構えられている。
 新府城は、一つ一つの曲輪が大きく、いずれの曲輪も土塁で囲まれて防御を徹底していたことがわかる。中でも北面は重厚な防御線を構築しており、ここで最後の決戦を挑んでいたら、どれ程の損害が織田軍に出たか、想像したくなる。しかし東側の防御は脆弱で、その点が新府城が未完成であったとされる所以であろう。

 尚、新府城は国の史跡となっているが、城が大きいため整備の手を行き渡らせることができず、ところどころ薮が多くなっている。しかも過去に樹木の全面伐採と薮払いがされたが、その後未整備が続いたため、現在では進入困難な薮も多い。中でも三の丸・二の丸南の馬出し・本丸西虎口の外枡形は激薮で、かつ茨が多く辟易する。以前にも他の城の記事で書いたが、継続的な整備ができないならば、樹木の全面伐採はやめて欲しい。樹木がなくなると日当たりが良くなって、雑草が猛烈な勢いで伸びて、人の背丈を超えるほど茂ってしまうからである。間伐され手入れされた山林のままにしておくのが、城にとっては良いと思う。
広大な本丸→DSCN4380.JPG
DSCN4524.JPG←搦手の乾門跡の方形区画
北側に突出した西出構→DSCN4547.JPG
DSCN4531.JPG←北西の水堀と切岸

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.735653/138.425063/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 5

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント