SSブログ

大豆生田砦(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN1141.JPG←砦跡の遠望
(2020年7月訪城)
 大豆生田(まみょうだ)砦は、天正壬午の乱の際に北条方が築いた砦である。元々大豆生田の地は藤巻伊予守という武士の拠った所である。1582年、織田信長の武田征伐によって武田氏が滅亡し、その3ヶ月後に信長が本能寺の変で横死すると、権力の空白地帯となった武田遺領を巡って、北条・徳川・上杉3者による争奪戦「天正壬午の乱」が生起した。北条氏直率いる北条方の大軍は、上野から碓氷峠を越えて信濃に入り、上杉方との対陣を経て、南下して甲斐に入った。そして、本陣を置いた若神子城を中心に七里岩台地の各所に大軍を配置し、新府城に本陣を置いた徳川家康の軍勢と対峙した。この時、藤巻氏は北条氏に属して戦った。北条方は大軍であったが、各所の局地戦で徳川方に敗れ、次第に劣勢に追い込まれていった。しかも大軍であったため兵粮調達に難渋し、七里岩台地下の藤巻氏の屋敷を取り立てて大豆生田砦として改修し、ここを拠点に徳川方を牽制しつつ藤井平で組織的な苅田を実施して兵粮の備蓄を図った。徳川方は、目前で北条方が連日苅田を実施するのを看過できなくなった。そして8月27日深夜、藤井平の各所に伏兵を配置し、翌28日に北条方が大豆生田砦から多数の将兵を出して苅田を始めると、徳川方の伏兵は一斉に蜂起して、北条勢に攻めかかった。不意を衝かれた北条方は砦に逃げ込み、追撃してきた徳川方と砦で激しい攻防となった。徳川諸隊は続々と砦に攻めかかり、遂に大豆生田砦を陥落させた。この後、花水坂の敗戦、江草小屋(獅子吼城)の失陥によって北条方は逼塞を余儀なくされ、更に10月中旬に信州上田を押さえていた真田昌幸が離反して徳川方に付くと、補給路を絶たれた北条方は危機的状況を迎えることとなり、結局徳川方の優勢下で和睦が結ばれることとなった。

 大豆生田砦は、塩川と須玉川の合流点に突き出た台地先端に築かれている。現在は中央自動車道が城地を貫通する他、砦跡は墓地や下水処理場に変貌しており、明確な遺構は残っていない。ただ、墓地はわずかに高台となっており、その地勢が砦の痕跡をうかがわせるだけである。『日本城郭大系』には大豆生田砦の空堀の写真が掲載されているが、現在は景観が変わりすぎていて、どこの写真なのかもわからなくなっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.770106/138.425642/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 5

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント