御所館(山梨県山梨市) [古城めぐり(山梨)]
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(2020年7月訪城)
御所館は、甲斐源氏の安田遠江守義定の西御所と伝えられている。義定は源清光の子(一説には義清の子とも言う)で、八幡荘に館を置き、小田野山に要害城を築き、その城下である御所集落に西御所を置いたと伝えられている。この西御所が、ここで記す御所館のことである。義定は、1180年、甲斐源氏の中ではいち早く以仁王の平家追討の令旨に呼応して挙兵し、その後兄の武田信義と共に富士川の戦いを始め、平家追討に功をたてた勇将であった。しかし、甲斐源氏の勢力増大を恐れた源頼朝によって、1194年に滅ぼされた。
御所館は、小田野城の南東麓にある。鼓川北岸の段丘上に位置し、「御所」の地名が残っているが、現在は果樹園や宅地となっており、遺構は確認できず、館の範囲も明確にできない。ただ御所館付近の西には、安田義定の墓と伝わる宝篋印塔や、義定生害の地と言われる腹切地蔵尊などが祀られていて、義定の伝承を色濃く残している。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.738658/138.680592/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
(2020年7月訪城)
御所館は、甲斐源氏の安田遠江守義定の西御所と伝えられている。義定は源清光の子(一説には義清の子とも言う)で、八幡荘に館を置き、小田野山に要害城を築き、その城下である御所集落に西御所を置いたと伝えられている。この西御所が、ここで記す御所館のことである。義定は、1180年、甲斐源氏の中ではいち早く以仁王の平家追討の令旨に呼応して挙兵し、その後兄の武田信義と共に富士川の戦いを始め、平家追討に功をたてた勇将であった。しかし、甲斐源氏の勢力増大を恐れた源頼朝によって、1194年に滅ぼされた。
御所館は、小田野城の南東麓にある。鼓川北岸の段丘上に位置し、「御所」の地名が残っているが、現在は果樹園や宅地となっており、遺構は確認できず、館の範囲も明確にできない。ただ御所館付近の西には、安田義定の墓と伝わる宝篋印塔や、義定生害の地と言われる腹切地蔵尊などが祀られていて、義定の伝承を色濃く残している。
腹切地蔵尊→
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.738658/138.680592/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:居館
お久しぶりです。
最近は山梨県の城館を上げられていますね。宮坂先生の本は無数の城館が出ていますが、現地に行くと自分はここに何しに来たんだと思うような所も少なくないです。御所という地名も日本中結構ありますね。こちらの田舎にもありますが、城館ではなく屋敷があった伝承から地名となったみたいです。
安田義定は本人や子供も不遇でした。兄弟の加賀美遠光とは対照的です。遠光の子は小笠原氏や南部氏の初代となり江戸時代も大名家として続いたけど、義定の子孫は歴史に埋没しました。
最近、なぜかコメントアップが失敗しました。
by 史学会帰り新参 (2021-01-18 16:17)
>史学会帰り新参さん
設定エラーでコメントに気付くのが大変遅れてしまいました。申し訳ありません。
コメント書き込みのエラーのことを教えていただいて大変助かりました。
甲斐源氏は頼朝に睨まれたために、不遇に陥った一族が多いですね。来年の大河ドラマでは、甲斐源氏はどのように描かれるのか、それともまったく出てこないのか、ちょっと楽しみです。
by アテンザ23Z (2021-12-20 21:29)